感想・2018年7月6日

      〈家族のかなしみ、かなしみの家族〉


近ごろ評判の「万引き家族」という映画を見てきました。
さすがに安藤サクラの泣きの演技は絶品だった。それだけでこの映画を見る価値があった、といってもいいくらい。

是枝祐和監督は、家族の映画を撮り続けているのだけれど、家族を肯定しているのでも否定しているのでもないらしい。
この映画の家族は、家族から離れてきたものどうしが集まった疑似家族で、血のつながりはどこにもない。これは、僕が考えている人類拡散のサイクルと同じであり、そこにこそ人間性の自然と本質があるともいえる。家族が不自然だというつもりはないが、血のつながりをよりどころにして考えるのは不自然だ、ということです。
そもそも最初の男と女の出会いが、家族から離れてきた血がつながっていないものどうしなわけだし。
この宇宙の途方もなく長い時間の歴史の中でたまたま奇跡のような偶然で出会ったものたちが一緒に暮らしている場所が家族で、しかも必ず滅びてゆくことを宿命にしている。
人類の歴史は、滅亡と再生を果てしなく繰り返してゆくことかもしれない。
滅びるという体験なしに、再生という体験もない。
喪失感のかなしみを基礎にして、出会いのときめきが体験される。その奇跡的な体験に対する愛おしさは、喪失感のかなしみを知っているものでなければ味わえない。
この映画の家族はどうしようもなく貧しく、誰もがどうしようもなくいいかげんなのだけれど、それでも誰もが「かなしみ」というものを知っている。3歳か4歳の女の子だって知っている。
家族の成員は、おばあさんと中年になりかけている夫婦と居候の若い娘と小学生くらいの男の子とその幼い女の子の6人。で、この監督は、この六人が映し出される場面をほとんど同じくらいにしながら撮り、しかも散漫な展開にならないように仕上げている。それはきっと、監督としてのなみなみならない手腕であり、人に対する愛や誠実さのようなものでもあるのでしょう。
そうして、最終局面での安藤サクラの泣きのシーンへとつながってゆく。
多くのヨーロッパ人さえ感動させたのだから、みごとというほかない。
美男美女なんか出ていないし、日本的な美しい景観も一切なく、ただ薄汚れた人たちと薄汚れた景観ばかりの映画なのに、なぜヨーロッパ人が感動したのか。
普遍性は大切です。どこに普遍性があるのかということも考えたいのだけれど、フランス対ウルグアイ戦を見たいので、今日はもうやめます。