感想・2018年7月四日

      〈団塊世代の犯したエラー〉

この国の政治が相変わらずであるように、日本人の性意識だって江戸時代どころか縄文時代からたいして変わっていないのではないかと思える。この社会には、そういう「伝統」というものがはたらいている。
伝統は、普遍的によいものだから残ってきたのではない。日本人の変えられない性根というようなものがある、というだけのこと。よくないことだって残ってゆくのであり、それはもうしょうがない。
日本人は伝統的に貞操観念が薄い。それは「汝姦淫することなかれ」という宗教の戒律が機能していない社会だからだ。
昨今は人妻の不倫が急増しているといっても、性意識が変わったからというよりは、もともとそういう性意識だったということ。
古代の新嘗祭は、「神の降臨を迎える」という名目のもとで、人妻に不倫をさせる祭りでもあった。その夜は、家には人妻だけが残って、家族のものはみんな外に出た。
縄文時代の山里のすべては女だけの娼婦の里だったともいえる。
日本列島は伝統的に娼婦になることのハードルはあまり高くないし、娼婦は女神でもあった。だから終戦後は、ごく普通の人妻や若い娘たちが「パンパン」という街娼になり、たくさんの帰還兵士を慰めた。
そのように女の貞操観念が薄いということは、女が虐げられることではなく、女は男の自由にはならないと合意されているということであり、セックスは女にお願いしてやらせてもらうことだ、という共通理解がこの社会にはたらいているということを意味する。
だから、外国に比べたら圧倒的にレイプが少ない国になっている。ただそれは、レイプによる傷がとても深い、ということでもある。この国にはレイプに対する耐久力がない。被害者の傷はもちろんのこと、社会もそれをなかったことにしたがるところがある。レイプが少ないからこそ、それを糾弾する社会制度があいまいで、泣き寝入りしている被害者も少なくない。
1960年代は、団塊世代の若者による強姦事件がとても多かった。僕のまわりにはそれを常習にしている少年たちがいたし、被害者の少女もいたし、そういう少女と付き合ったこともある。
その反動であるのか、「女が男を捨てる」という関係が顕著になってきたのも、70年代の団塊世代からで、古き良き家族制度の崩壊、などといわれた。
セックスは女にやらせてもらうものだ、というこの国の伝統が団塊世代によって壊され、団塊世代の家族が自滅していった。
人それぞれだろうが、世の中はいろいろややこしい。