「今ここ」に生きてあることの形見・神道と天皇(114)

儀礼・儀式は宗教ではない。
「おはよう」というあいさつを宗教儀礼だとは誰もいわないだろう。原始人の「埋葬」という儀礼・儀式は、宗教ではない。その契機は、親しいものの死が耐え難かったからであり、なおも死者と一緒に暮らしかっただけだ。
原始的な心性をそのまま洗練させてきた日本列島の伝統文化においては、死者は天国(極楽浄土)という隔絶された世界に行くのではなく、生者の世界とつながっている。だから日本人は「幽霊」を見てしまうのであり、能の物語の主要なモチーフにもなっている。
東日本大震災で生き残った多くの人たちが、「幽霊」を見た、と告白している。それはもう日本人であるならしょうがないのであり、迷信というより文化の問題なのだ。日本人にとっては「死んだら仏になる」のであり、それは「かみ」のような「非存在」の対象にほかならない。だから幽霊には足がない。
まあ現在においては、幽霊にも宗教的なニュアンスが加味されているが、その体験はげんみつには宗教心によるとはいえない。たんなる原始的な生命観の延長にすぎない。
ネアンデルタール人が自分たちの暮らす洞窟の土の下に死者を埋葬し、「死者がそばにいる」とか「死者に見られている」と思ったからといって、それは迷信でも宗教心でもないだろう。そしてそれが、日本列島の伝統でもあるのだ。
日本人にとってもネアンデルタール人にとっても、死者は、キリスト教徒やイスラム教徒よりももっと身近な存在なのだ。
日本列島には、祀り上げる「神(ゴッド)」など存在しない。たとえば森や石それ自体が「かみ」であり、森や石に宿っている「かみ」は「隠れている=見えない=存在しない」対象なのだ。その「隠れている=見えない=存在しない」ことそれじたいが「かみ」である
「存在しない」ことが「かみ」であることの証しである……それが神道における基本的な「かみ」の認識であり、古代以前の人々はそうやってひたすら「遠い憧れ」それ自体を生きていた。

知ってしまったらもう、「遠い憧れ」ではなくなってしまう。
「遠い憧れ」が原初以来の人類の歴史を支えてきたのだし、それが日本列島の伝統的な精神風土になっているとしても、じつは世界中が共有している人としての無意識でもある。
「宗教心」ではない。普遍的な人間性の自然としてのこの生の外の世界 に対する「遠い憧れ」の問題なのだ。それは、二本の足で立ち上がった原初の人類がはじめて森の木々の向こうに青い空を見上げたとき感慨であり、そうやって人類に芽生えた「この生の外に対する遠い憧れ」がときには「進取の気性」として人類の心模様や行動様式に進化発展をもたらしたわけで、もちろん極寒の北ヨーロッパまで拡散していったネアンデルタール人の中にもさらに深く切実に息づいていた。
人類が地球の隅々まで拡散していったのは、住みよい土地を求めたのではなく、「この生の外に対する遠い憧れ」にうながされたからだ。そうでなければ、もともと熱帯種である人類にとってもっとも住みにくい土地であるはずの極寒の北ヨーロッパまで拡散していったことの説明はつかない。
何を好きこのんでわざわざそんな地域まで拡散していったのか。それは、もっとも住みにくい土地こそ、人と人がもっと深く豊かにときめき合える場所でもあったからだ。
つまり、人と人がときめき合う関係性は、「この生の外に対する遠い憧れ」の上に成り立っている、ということだ。
それは「宗教心」ではない。
原始人の心性を思い描くことに「宗教心」を持ち出すべきではない。
原始時代の歴史に進化発展をもたらしたのは他愛ない「ときめき」であり、そこから人間的な「進取の気性」が生まれ育ってきたのだ。
たとえば、人類拡散をもたらしたのは、「より住みやすい土地をもとめて」という「生き延びようとする欲望」ではなく、「もう死んでもいい」という勢いの「この生の外に対する遠い憧れ」によるのだ。
「この生の外に対する遠い憧れ」は「宗教心」ではない。その原始的な心性はもっとピュアで切実な心映えであり、それに比べたら「宗教心」などというものは、文明社会によって生み出されたきわめて通俗的で観念的なものにすぎない。
「宗教心」で人間性の自然を語ることはできない。

起源としての神道は、「原始宗教」だったのではない。
人類史における「埋葬の起源」を考えるとき、一般的にはつい安直に「宗教心の芽生え」というような問題設定をしてしまうわけだが、それは真実ではない。
とくに宗教的な環境に置かれてしまっている欧米人の多くはもう、 避けがたくそういう問題設定でしか考えることができない限界を抱えてしまっている。
葬送儀礼は、「宗教」ではないのだ。
儀礼とか儀式というようなものは、宗教心などなくても、この生の「今ここ」に点を打とうとするなら、自然に生まれてくる。
茶道の作法だって、すべて儀礼・儀式ではないか。べつに「かみ」に捧げているわけではないし、天国に行くためでもない。一期一会、ただもう「今ここ」のこの瞬間に点を打とうとしているだけだ。
したがって神道にさまざまな儀礼・儀式があるとしても、それが宗教心によるものだとはいえない。
神社で柏手を打って拝んだり祝詞を奏上したりすることは、起源においてはべつに「神の恵み」を欲しがったり「神の怒り」を鎮めようとしたりしていたのではない。それだって、ただもう「今ここ」のこの瞬間のめでたさを祝福していただけだ。やまとことばの「祀り上げる」とは、祝福し称揚することであって、べつに神に何かをしてほしいとか天国に行きたいとかという宗教的な欲望をあらわしているのではない。
どうすればこの生やこの世界がよくなるかということではなく、この生のことなど忘れてただもう無心にこの瞬間のこの世界を祝福してゆくこと、それが神道の基本的な作法であり、宗教でもなんでもない。ただ、「神仏習合」の歴史とともにしだいに宗教ようなポーズをとるようになっていっただけのこと。
人類史における儀式・儀礼の起源は、宗教心の芽生えによるのではなく、人間性の自然である「集団性」のあらわれであり、「おはよう」のあいさつの延長として生まれてきただけのこと。まあそれだけのことだが、それほどに人は「今ここ」の一瞬を切実に豊かに生きている存在であるともえいる。そしてこのことは、この生やこの世界を「永遠の秩序」たらしめようとする宗教のコンセプトとみごとに逆立している。
人類は、べつに生き延びようとする政治的宗教的な欲望によって儀式・儀礼をはじめたのではない。

詩碑とか歌碑とか記念碑とかを建てたり記念植樹をしたりする儀式・儀礼は、べつに宗教行為だともいわないだろう。
儀式・儀礼とは、「今ここ」に生きてあることの痕跡を印す行為なのだ。
一期一会の茶の湯の作法はすべて、「今ここ」を刻印する儀式・儀礼にほかならない。それは、戦場で戦う前の死を覚悟した武士が、今生の別れというかこの生の形見として交わす儀式・儀礼だった。
いずれにせよ現在のように医療技術が発達した時代ならともかく、昔の時代であればあるほど、生きてある「今ここ」に対する思いは切実になる。
直立二足歩行の起源以来、人類は、つねに生き延びることが困難な生を余儀なくされて歴史を歩んできたし、生き延びることが困難な状態においてこそこの生のはたらきはより活性するから、めざましく進化発展してきたのだ。
起源としての儀式・儀礼は、生き延びようとする欲望の表現だったのではない。「今ここ」に対する切実さこそが契機になったのであり、生き延びる未来のことなど忘れて「今ここ」を刻印する行為だった。
文明制度としての結婚式はひとまずたがいの未来を誓う行為であるが、それはあくまでたてまえであって、正直な気分としてはただもう「今ここ」に至ったことのよろこびやときめきを共有する儀式・儀礼であるに違いない。
人のセックスには、性器の挿入の前段階として前戯をする。さらにその前にキスをする、見つめ合って言葉を交わす、これだって儀式・儀礼のひとつだろう。性器の挿入のためにそうするのではない。途中でやめてしまってもかまわないし、そんな未来のことなど忘れて「今ここ」でそうせずにいられないから、言葉を交わし、抱き合い、キスをしているだけだ。人類の文化として、言葉を交わすことも、抱き合うことも、キスをすることも、セックスから独立している。それらはあくまで「今ここ」を刻印する儀式・儀礼なのだ。

まあ、人が絵を描いたり歌ったり踊ったりすることだって、「今ここ」を刻印しようとするひとつの儀式・儀礼だともいえる。いやもう人間性の自然における生きるいとなみはすべて「今ここ」を刻印する儀式・儀礼だともいえるわけだが、それでも文明社会は、人の心を未来へ未来へと引きずってゆく。
われわれの心は、文明社会によって、たえず「生き延びたい」とか「幸せになりたい」とか「自分が存在することの正当性を確認したい」とか「救われたい」というような未来に向かう欲望を喚起させられているし、そんな欲望を持つことこそ人間性の自然だというような認識を持たされてしまっている。どうしてそんなことを「真実」だと思い込んでしまえるのだろうとまったく不思議であるのだが、とにかくそう思い込ませてしまう社会の構造がある。つまり文明社会の歴史とは、人々の心にそういう欲望を埋め込んでゆく歴史だったのかもしれない。
人の心は、「今ここ」を刻印しようとする衝動と、未来に向かう欲望とのあいだを揺れ動いている。前者は個体としての生のはたらきにおける人間性の自然であるが、文明社会の制度性が発達した現代においては、後者の欲望が第一義的な問題になって、前者の人間性が大きく後退してしまっている。
いまや人の心が文明社会の制度性に飲み込まれてしまっている、ということだろうか。
フロイト以来の心理学では、「共同体の制度性は成員を統合失調症にするが、それによって共同体にフィットしているのだから、共同体の中ではそれが病理としてあらわれることはない」といわれている。
まあ、そうやってわれわれは、前のめりに未来に未来にと向かう「欲望」とか闘争原理・競争原理等の「欲望」をあおられて生活している、ということだ。
つまり、現在のこの世界を動かしているものたちとはもっとも統合失調症的な傾向があからさまなものたちである、ということ。このことをジョン・レノンは、「この世界の支配者はすべて偏執狂である」といっている。きっとそうだろう。アメリカのユダヤ・マフィアも、トランプも、プーチンも、習近平も、金正恩も、安倍晋三も、みな一種の偏執狂にちがいない。
さらには、織田信長徳川家康吉田松陰高杉晋作岩倉具視西郷隆盛だって「この世界を未来に向かって動かそうとする」偏執狂だったともいえるわけで、そこから、人はみな偏執狂=統合失調症であり、そこにこそ人間性の自然・本質がある、と居直るようにもなってゆく。
われわれが未来に向かう「欲望」をたぎらせているかぎり、そうした偏執狂たちに支配され続けなければならない。

とはいえ、それでも人であるかぎり誰の中にも「もう死んでもいい」という勢いで「今ここ」を刻印してゆこうとする衝動は息づいているのであり、ここまで世界の「欲望」が飽和状態になってくれば、そうした衝動を取り戻そうとする文化的なムーブメントもとうぜん生まれてくる。
難しいことじゃない、他愛なく「かわいい」とときめいてゆけばいいだけのこと。もともと人類は、そうやって「今ここ」を祝福し祀り上げながら、宗教や政治とは無縁の、この生の作法としての儀式・儀礼を生み出してきたのだし、最終的にもそういうところに着地してゆかないことには世界の歴史も個人の生死も成り立たないのではないだろうか。
「今ここ」に「永遠」を見ようとする衝動(あるいは願い)、と言い換えてもよい。そこから「かわいい」の文化が生まれてくるのであり、人は永遠に包まれて生き、永遠に包まれて死んでゆく。
「ときめく」とは、永遠に包まれること。そうやって「もう死んでもいい」という勢いが生まれてくる。「ときめく」ところにしか、人類の知性や感性、すなわちその進化発展はない。そこにこそ儀式・儀礼の起源の契機がある。まあ何ごとにおいても、そこにこそ人間的ないとなみの深さや豊かさがある。
現在であれ古代や原始時代であれ、日本人であれアメリカ人やブラジル人であれ、その人が魅力的でその人の人生が豊かであるのは「永遠に包まれる」体験を持っているからであり、裏を返せば、その人の人生が貧しいのはときめくこともときめかれることもないからだろう。
人は社会的に成功すれば人生のゴールになりエクスタシーに浸れるかといえばそういうわけでもなく、それでもまだ「何かが足りない」と思う。そして何が足りないかの想像力がなければ、そこで燃え尽きてしまうしかない。そこに立ってもなお人は、「永遠に包まれる」体験を夢見てしまう。
人は誰もが「永遠に包まれる」体験を夢見て生きている。それは「今ここ」の一瞬で体験されることもあれば、死ぬまで体験できないこともある。それは、どんな体験をしたかということではなく、その人の知性や感性の問題であるのかもしれない。
永遠は「今ここ」にある。それが日本列島の伝統の精神風土であり、人類普遍の原始的なメンタリティである。
世界中の誰もが「永遠に包まれる」体験を夢見て生きているのに、現在の世界では高度に発達した文明制度という物質文明にそうしたメンタリティを侵食されてしまっている。
「今ここ」を刻印することができなくなっている。「今ここ」の「永遠」が見えなくなってしまっている。
「永遠」が「存在」であることは、論理的に成り立たない。「永遠」とは「非存在」なのだ。それが神道の「かみ」であり、その伝統から現在のこの国で「初音ミク」というバーチャル・アイドルが登場してきた。