機が熟せば、先のことなんかどうでもいい・神道と天皇19

何はともあれこの論考で確認したいことは、仏教伝来以前の日本列島に宗教(=神)は存在しなかった、ということだ。
本居宣長賀茂真淵の「国学」における神道観は、「復古神道」といって、古代および古代以前の神道に戻れと提唱しているらしいのだが、僕は。古代以前に「アニミズム」としての「原始神道」のようなものがあったとは考えていない。
原始人に自然の森羅万象に対する畏れがあったとすれば、それは、自然をつくった神という存在に対する畏れはなかった、つまり神などという存在は知らなかった、ということを意味する。彼らが神を知り神に対する畏れを抱いていたとすれば、神に見習ってもっと積極的に自然を支配しようとしていったはずだ。
神とは自然をつくり自然を支配している存在であり、人類がそういう存在をイメージできるようになったのは、文明発祥とともに都市国家が生まれてきてからのことだろう。そこでは、人が人を支配し、人が自然を支配して鉄や銀や銅が精錬されていた。金属の精錬という行為は、人の心をより強く自然から逸脱した位相に導く。それは、生きるための衣食住とは関係のないものであり、この生=自然を超えた何かを意識してゆく契機になる。
もしかしたら「人類は金属の精錬を覚えたことによって神の存在を意識するようになっていった」という仮説を立てることができるのかもしれない。いずれにせよこの問題は、奥が深い。とにかく、古代メソポタミアのその都市国家でつくられた銀のインゴットを求めてまわりの地域からどんどん人が集まってきた。その銀のインゴットは、「神」であったのかもしれない。
農業も自然を支配することの範疇に入るのだろうが、けっきょくのところこの生=衣食住のための行為にすぎない。また、同時にそれは自然から支配されることでもあって、どんなに急いでも収穫できるときは自然のはたらきにまかせるしかない。
人の心は、この生=自然を超えた何かに向かう。そうやって「神(サムシング・グレイト)」の存在を意識させたのは、農業よりもむしろ、都市国家の発祥とともに起こってきた工(鉱)業や商業だったのかもしれない。
農業はつまるところ自然に対する畏れなしには成り立たない。それはひたすら自然の声に耳を傾けながらなされるのであり、神にお願いしてすむのなら楽なものだが、農業が原始的であればあるほど、そんな余裕はなかった。ひたすら自然の「なりゆき」に寄り添ってゆかなければ、農業なんか成り立たなかった。
したがって、農業が盛んになってきた弥生時代に、「神」にお願いする「宗教」という習俗が存在していたとは言い切れない。彼らは、神よりも、自然そのものに支配されて生きていた。
いずれにせよ、「自然の森羅万象に対する畏れ」が「神」を意識してゆく契機にはなりえない。森羅万象を支配している、森羅万象を超えた存在が「神」なのだ。

山奥の深い森の中で、今まで聞いたこともないような不思議な音がどこから聞こえてくる。そのとき原始人は、森というのは怖いところだなあと思うだけで、森をつくり森の生成を支配している存在を思い浮かべることはない。
神道において、森を神の形代とし、森の入り口にしめ縄を張って入ってゆくことを禁じているとき、森の姿そのものを神としてありがたがっているのであって、森の中に神がいるといっているのではない。われわれは、森の姿そのもののめでたさに手を合わせているのだ。
神道の「神(かみ)」は、自然の「姿=気配」として、その森羅万象が起きてくる「契機(きっかけ)」として存在している。古事記の書き出しにおける神の出現の話は、そのようなことを語っている。
続きの部分を引用してみよう。

次に成りし神の名は、国之常立神(クニノトコタチノカミ)。次に豊雲野神トヨクモノノカミ)。この二柱(ふたはしら)の神も独神(ひとりがみ)と成り坐(ま)して身を隠すなり。


最初の部分をもとの漢字だけの表記に戻すと「次成神名」となる。本居宣長はこれを、「つぎになりませるかみのみなは」と読んでいる。しかし「なりませる」と読ませるつもりなら「成坐」と表記するだろうし「みな」と読ませたかったら「御名」とするにちがいない。こういう「神道オタク」の勝手で過剰な思い入れは、少々鼻につく。
本居宣長によれば、この物語の漢文表記の文献は当時の皇室にすでに保存されており、それを「古語(=やまとことば)のふり」に直したのが古事記であるのだとか。
では、この物語を最初に生み出したのは皇室かといえば、おそらくそうではない。皇室の家系を語りたいのなら、神武天皇の登場のところからはじめるだろうし、何より天皇自身が自分は神だと思っていたはずも思えるはずもない。民衆が天皇のことを神として祀り上げていただけであり、天皇はそれを受け入れていた。天皇はその本質において受動的な存在であり、それはもう、もともとの成り立ちのところからそうだったのだ。
したがってその物語は最初、民衆が天皇に奏上して捧げ、それをそばにいた役人が大まかな漢文に書き写していったのだろう。そうしてそれは、もとのやまとことばに直してよみ上げる「語り部」が代々引き継いでいったのだろうが、時代とともにだんだん変形したり抜け落ちたりしてくる。だから今のうちにそれを文字の上にとどめておきたいという意図で古事記が生まれてきた。
ともあれ、天皇家自身が自分たちが神の末裔であることの根拠としてこのような物語を生み出したとは考えられない。それならもっと別の語り口になっていたに違いない。それならその神々をもっと清廉潔白で高貴なキャラクターにするだろうし、話があれこれ脱線したりもしないに違いない。
古事記は、話がシッチャカメッチャカだからおもしろいのだし、そういう話は民衆がわいわい語り合っている場からしか生まれてこない。梅原猛などは、奈良時代のあるひとりの天才的な文学者によってつくり出されたという仮説を出したりしているが、権力の側からの要請によるのなら、そのような話にすることはできない。少なくとも上巻の神々の物語は、そういう「制約」のないところから、自由に想像力をはばたかせながら生まれてきた話なのだ。
面白いけど、上等な話ではないし、発想が素人くさくもある。それが、古事記なのだ。そして、だからこそそこに、日本列島の住民の歴史的な無意識が、深く沈潜して息づいている。
それは、皇室から生まれてきたのではないし、ひとりの天才の発想によるでもない。
たとえば古事記は、日本中の土地の細部のことまでとてもよく知っている。それは、皇室やひとりの文学者の知識だけで賄えることではない。そのころ奈良盆地には、日本中から旅人が集まってきていた。そういうものたちがもたらす情報を織り込みながら話がつくられていったに違いない。
ヤマトタケルの遠征などといっても、歴史上でそんなことが本格的に起きてきたのは奈良時代から平安時代にかけてのことだ。支配者だろうと民衆だろうと、それ以前の奈良盆地の住民が日本列島のことをくまなく知っていたはずがないのに知っていたわけで、そういう情報をもたらす旅人と接する機会があるのは民衆であって、雲の上の支配者たちだったのではない。


国之常立神(クニノトコタチノカミ)という名前は、その前の天之常立神(アマノトコタチノカミ)と対になっているのではない。
この場合の「国(くに)」という言葉は、天に対する地、といっているのではない。「地」は、まだ生まれていない。ここではあくまで「天上の国」が出来上がってゆく話を語っているわけで、この場合の「国(くに)」とは、神々がいて華麗な御殿があってというような「天上の国」の景色のことをいう。そしてこの神も「独神(ひとりがみ)として消えていったのだから、そういう景色が生まれてくる「気配=きっかけ」として現れてきたにすぎない。
「く」は「組む」の「く」、「複雑」の語義。「に」は「似る」「煮る」の「に」、「接近」をあらわす。「たくさんの人が寄り集まっている世の中」のことを「くに」という。まあ、いちばん大きい「世の中」の単位を「くに」という。
場所が「定まる」ことを「とこたち」というのであって、「出来上がる」ことではない。まだそこで暮らす神々があらわれていないのだから、出来上がっているはずがない。
この国では、何ごとも「気配=きっかけ」がないとはじまらないし、それさえあれば先のことなんか何もわからなくていいのだ。
であれば、次の豊雲野神トヨクモノノカミ)という名は、どのように解釈すればいいのだろうか。
「豊雲野」といえばもう、字義通りの景色はかんたんに思い浮かべることができる。しかし、ほんとうにそういう景色のことをいっているのだろうか。
古事記の神の名は、神のはたらきの性格をあらわしているのであって、その漢字の限定された意味にとらわれると間違う。それは、たんなる当て字かもしれない。そのはたらきの性格を問うためのヒントにはなるだろうが、「雲」という字を使っているからといって、空に浮かんだ雲のことだけをいっているとはかぎらない。古代においてはひとつの言葉にさまざまな意味やニュアンスが含まれていたのであり、何はともあれ言葉はまず「音声」だったのだ。「古語のふり」に推参するためには、その音声のニュアンスを問うていかないといけない。
「とよ」の「と」は「止まる」の「と」。「よ」は「寄る」の「よ」。「寄り集まって静止している状態」、すなわち「満ち足りている状態」をあらわしている。
「くも」の「く」は、「組む」の「く」。「も」は「盛る」「持つ」の「も」。「くも」とは、「縦横に力がみなぎっている状態」のこと。「曇り」は「空が雲に覆われている」ことで、「心が曇る」といえば「心配事に覆われている」こと。
そして「の」は、「乗る」「熨(の)す」「呑む」の「の」。「苔むす」の「むす」と同じように「覆い被さってゆく」ことをあらわしているが、こちらの方が力強いニュアンスを持っている。
「とよくもの」とは、「(天上の国が出来上がってゆく)エネルギーが満ち溢れた状態に覆われている」というようなニュアンスをあらわしている。つまり「機が熟した」ということ。
ここでは、天上の国の位置が定まり、そしてそこにエネルギーが満ち溢れていった、といっているのであり、まだ天上の国の建設ははじまっていない。

ここまでの神はすべて、「きっかけ=気配」だけをつくって隠れていった。なんと回りくどい進行か、ともいえるが、これが日本列島の世界観の伝統なのだ。「機が熟する」ということにとてもこだわるし、それを感じてゆくことの味わいというのもある。われわれはもう、冬のさなかから、春が生まれてくる機が熟しはじめていることに気づいている。
現在の会社の会議だろうと昔の村の寄り合いだろうと、いつまでたっても決まりそうもない中途半端な議論を延々と続けながら、機が熟してくるのを待っている。そうして機が熟した最後には、リーダーの鶴の一声であっさりと決まったりする。最初から結論なんかにこだわっていない。結論はどちらでもよい。しかし、機が熟さなければ動きはじめることはできない。
正しいか間違っているかということなどどうでもいいのであり、それが、神を知らない民族の世界観なのだ。しかし、いいかえればそれは、たとえ間違っていても「神の裁き」に従ってしまう、ということでもある。たとえ間違っていてもというか腑に落ちなくても「お上」の決めたことには従う、そうやって太平洋戦争に突入していった。それは、天皇が決めたのではない。そういうかたちで日本中の機が熟してしまったのであり、天皇でさえ「機が熟した」ことに従っただけだ。
「とき」というやまとことばは、「物事のはじまりの機が熟している状態」のことをあらわしているわけで、そうやって「エイエイオー!」と「ときの声」を挙げる。
とにかく古事記においては、ここまで来て、ようやく天上の神の国が生まれてくる「機が熟した」のだ。神を知らない民族においては、万物はすべて機が熟して「おのずからなる」のであり、「神の導き」という作用を思い浮かべることができない。われわれは、キリスト教徒やユダヤ教徒イスラム教徒のように、「神との関係」を知らない。神は「隠れている」のだ。「神がつくった」といえばいいだけのことを、ここまで回りくどく、機が熟して「おのずからなる」過程を語らねばならない。
日本列島の住民は、ひたすら機が熟してゆく過程に耳をそばだて目を凝らしている。まあ、神道とともにそういう「過程」を大切にする文化を守り育ててきたということだろうか。その「過程」に「神の手(導き)」がはたらくことはない。「神の手(導き)」がはたらけば、「過程」は必要ない。しかし古事記においては、神すらも、「神の手(導き)」がはたらいていない「過程=気配」の中に投げ入れられている。
日本列島の「気配=姿」の文化は、神を知らない。
古事記の作者は、神について語りつつ、神について何も知らないことをさらしてしまっている。