都市の起源(その三十五)・ネアンデルタール人論186

その三十五・支配されてしまう

支配と被支配。
どうしてこんな関係が生まれるのだろう。
支配されるなんて、鬱陶しくて苦しいばかりなのに、どうして受け入れてしまうのだろう。
人類最初の国家は「王」という存在が登場してきたことによって生まれたといわれているし、猿の世界だって、ボスによる支配がある。
民衆はなぜ権力者による支配を受け入れてしまう歴史を歩んでこなければならなかったのか。
現在もなおわれわれは、権力者に支配されている。民主主義といったって、支配する権力者をみんなで選んでいるだけのことで、「支配=被支配」の関係がなくなったわけではない。また、身近な暮らしの場においても、家族や学校や会社等々、「支配=被支配」の関係はいたるところに存在している。
「奴隷」は、今でもこの地球上のどこかにたくさんいる。イスラム社会の女なんか、限りなく「奴隷」の立場に近い。
文明社会は、支配しようとする欲望を持った人間を生み出す。それは、避けがたく支配されてしまう無防備な心を持った人間が存在しているからだ。都市生活の作法は、誰もが無防備になってゆくことの上に成り立っている。そうならなければ、この限度を超えて密集した集団を生きることはできない。人類史においては、その作法とともに、原始的な都市集落が、制度的な都市国家へと変質していった。
いくら支配しようとする欲望を持った人間があらわれても、支配されてしまう人間が存在しなければ、その「支配=被支配」の関係は生まれてこない。最初は、支配しようとする人間は一人で、ほかはみな支配されてしまう人間だったのかもしれない。そうやって「王」という存在が登場してきた。
つまり、人々の「支配されてしまう」性向が、ひとりの「支配しようとする欲望」を持った人間を生み出した、ともいえる。


人間性の自然は、「避けがたく支配されてしまう無防備な心」を持っていることにある。そういう心が成熟していって人類史に「都市」が生まれてきた。そしてそういう心が機能している集団だからこそ、それに付け込んで支配しようとする欲望も生まれてくる。そうして生きにくい世の中(=憂き世)になってゆく。そういう都市生活が機能不全に陥りそうな状況から、「王」という存在が、都市住民の「避けがたく支配されてしまう無防備な心」の存在証明として、そして「支配しようとする欲望」の不在証明(アリバイ)として人類史に登場してきた。
まあ最初は、都市住民がみずから祀り上げて「王」を生み出したのであって、いきなり権力を持った「支配者」として人々の前に登場してきたのではない。つまり、支配できる「軍隊」を持って登場してきたのではなく、「王」になったことによって「軍隊」を組織していっただけのこと。なぜなら「王」とは、つねに自分のまわりの世界に対して警戒し緊張し、それによってみずからの「支配欲」を保っている存在だからだ。
それに対して日本列島の「天皇」は、いろいろ歴史の紆余曲折はあったにせよ、けっきょくのところ、民衆の「避けがたく支配されてしまう無防備な心」の存在証明および「支配しようとする欲望」の不在証明(アリバイ)のよりどころとして、この2000年という長い間を機能し続けてきた。日本列島の「天皇」は、もっとも原始的な「王」であると同時に、究極の「王」でもあるのかもしれない。「王」がそういう機能を失えば、民衆の心は離れてゆくし、民衆やライバルによって殺されねばならない。「王は君臨すれども統治せず」などといったりするが、民衆の「避けがたく支配されてしまう無防備な心」に付け込んで支配・統治することばかりしている権力者はけっきょく殺されてべつの権力者に取って代わられる。
織田信長やシーザーだって、つまるところ民衆や家臣の「避けがたく支配されてしまう無防備な心」に付け込んで支配・統治することばかりしていたのであろうし、そんな「英雄」を賛美する興味なんか僕にはありません。
作家の塩野七生は、シーザーを賛美しつつ「権力とは影響力である」といった。それはたしかにそうであるのだが、その「権力=影響力」を行使しないのが都市生活者としての民衆の人と人の関係の作法であり、なんだか知らないがこの国の「天皇」は、そういう作法の体現者として機能している。「天皇」は「影響力」を持った存在であるが、あくまで「愚かでぼんやりしたもの」として振る舞い、それを行使しようとしていない。行使しようとしないことが、「天皇」の魅力になり影響力になっている。


断わっておくが、僕は右翼でもなんでもないですよ。むやみに「権力=影響力」を行使しようとすることはつつしむべきだと思っているだけのことで、まあ右翼であれ左翼であれ、今どきの一部の知識人の、読者に「影響力=権力」を行使しようとするような書きざまはほんとに下品で卑しい。この世の中にはそんな書きざまの知識人がうようよのさばっていて、まったく「憂き世」だなあ、と思っているだけだ。
親は、子供に対して避けがたく「影響力」を持ってしまう。それは子供の限界をつくってしまうとても申し訳ないことであり、それに付け込んでむやみに「影響力=権力」を行使しようとすることはできない。そういう親は子供にそむかれる。それはもう、織田信長やシーザーが殺されたことだって本質的には同じにちがいない。
他者の「避けがたく支配されてしまう無防備な心」に付け込んで「権力=影響力」を行使しようとするなんて、下品で卑しい態度だ。
魅力的な人は、避けがたく「影響力」を持ってしまう。今どきは、そういう「影響力」を持たない人間ほど他人の「避けがたく支配されてしまう無防備な心」に付け込んでそれを行使しようとしたがる。彼らは、その「影響力」をみずからの存在の正当性として確認しようとしている。彼らはもう、本能的に、他人のそうした「無防備な心」を鵜の目鷹の目で付け狙っているのであり、そうやって「監視するストーカー」になったりもする。
まったく、ブサイクな人間ほど他人を支配・干渉したがり、監視してばかりいる。
こんな俗世間の愚痴ばかり並べていてもしょうがないのだが、このブログなんて、しょせんはそのレベルでしかない。
ついでに下世話なことをいえば、魅力的な人はおおむねけだるそうな話し方をして、ブサイクな人間にかぎって声高で自分に酔ったような話し方をする。内田樹先生、あなたのことですよ。それはもうその書きざまにもあらわれている。あなただけじゃないですけどね。現代社会はそういうこの世界や他者を警戒して緊張しきった人間がのさばるような仕組みになっているのかもしれないが、それでも人間性の自然は、原始時代であれ現代であれ、いつだって「避けがたく支配されてしまう無防備な心」にある。
今どきは、無防備な愚かでぼんやりした人間として生きることはとても難しい世の中だけれど、それでも誰もがそんな心模様をどこかしらに抱えて生きている。この世界や他者を警戒して緊張しきったまま生きることなんかできない。人類がそういう存在なら、二本の足で立ち上がるということはしなかったし、地球の隅々まで拡散してゆくということも起きなかった。
まあ、ときめくこともときめかれることも貧弱な生き方をしてきたブサイクな人間ほど、警戒し緊張しまくって生きている。そうして「江戸の仇を長崎で」ということだろうか、大人になると、むやみに他人を支配・干渉したがり、鵜の目鷹の目で監視してばかりいるようになってゆく。
いやな世の中だ。
愚痴はいうまいと思うのだけれど、僕のようなダメ人間は彼らの餌食にされることも多く、愚痴ばかりこぼれ出てきてしまう。