迷子になってしまう・ここだけの女性論4


ここではとりあえず「いい女や幸せになるために努力をしなさい」という、今どきの妙な女性論に対する批判を中心に書いていきたいと思っています。そんな努力をするエネルギーがあるのなら、熱中できる何かを見つけてそこに向ければいいだけでしょう。
言い換えれば、熱中できるものを何も持っていないから、そういうよけいな努力をしないといけなくなる。
たぶん、熱中できるものをすでに自分で見つけて生きている女たちと、「いい女の幸せ」路線の女性論でがんばっている女たちの両方がいるのでしょうね。
自分を忘れて何かに熱中することと、自分をまさぐり続けながらいい女や幸せになるための努力をすることの心模様の違いというのはたしかにあるのでしょう。自分をまさぐるとは、今どきの言葉でいえば「自己愛性パーソナリティ障害」の兆候のひとつで、世の中にはそれで成功する女がいてそうした女性論を書いているのだろうが、その路線にのめりこんだあげくに失敗して精神を病んでしまう女もいる。
そんな努力にあくせくしているなんて輝いていないし、心が壊れて停滞してよどんでゆくきっかけにもなりやすい。
まあ、努力していい女になってそれを見せびらかしてうまく生きている女があちこちにいて、そういう女が「幸せ」という甘い汁を吸っている世の中ではあるのでしょうが。



誰もがいい女であることを見せびらかそうと競争する世の中になると、かえって一部の女に男が独占されてしまうということも起きてくる。つまり、一部の男や女がセックスや恋の相手をコレクションして自慢し合っている。それはあんまり自然な現象とはいえないわけで、その結果、結婚したくない男女や結婚できない男女がどんどん増えてきてしまった。
内田樹先生は、「現代社会は男と女の関係が絶好調に機能している」といっておられたけど、ほんとにそうでしょうか。
女がみんな社会に居座っていい女であろうとがんばっているなんて、なんか不自然です。
油断していると男なんか置き去りにして勝手な世界に入っていってしまうのが女であり、女の世界はこの社会にはない。女は、ほんとうは男に寄ってくるような存在ではない。だからこそ男がどんどん女に寄ってゆく。そういういう関係になってはじめて「絶好調に機能している」といえるのではないでしょうか。
そういう関係じゃないから、結婚しないとかセックスレスというような現象になってくるのであり、それは男と女の関係が機能不全に陥っているともいえるのでしょう。



「いい女」でなくてもいい。男は、女が女であるというそのことに畏れ、ときめいている。まあここでは、そういうことを書いてゆきたいわけです。
女は自分が女であることにうんざりしているし、男は女が女であるというそのことを追いかけている。このようにして人類の男と女の関係の歴史が流れてきた。そういう男と女の関係のあやというものが壊れてきている世の中なのでしょうか。
少なくとも男にとっては、いい女であることを見せびらかしている女よりも、女であることにうんざりしている女のほうが魅力的です。
結婚であれ仕事であれ、何がなんでもこの社会に居座っていい女であり続けようとがんばるためのアドバイスとして女性による女性論が花盛りになっているなんて、なんか変ですよ。それは、多くの女たちが迷子になってしまっているということを意味する。



いや、迷子になってしまってもいいのです。
迷子になって途方に暮れているからこそ、他愛なく人にときめいてゆく。迷子であることそれ自体を生きることができる女は輝いている。誰もがそういう心を持っているなら、この世界の男と女の関係はもっとうまくゆくのでしょう。
しかし、身近な男とは友達以上の関係にはなれないという、そのなれなれなれしさというか男をなめた態度というのもちょっと不自然です。身近な男なんか男のうちに入らない、ということでしょうか。
普通の男は、女が考えるよりももっと女が女であることに畏れときめいている。そしてそのていどの男はもう、いまや男の範疇に入れてもらえないらしい。
いまどきの女性論は、「いい女」になってもうワンランク上の男をつかまえましょう、と扇動している。迷子になるなんて愚かなことだと強迫してくる。
人間がなぜ死を意識してしまうかといえば、心の奥のどこかで生きてあることを嘆きつつ、生きてあることからはぐれてしまっているからでしょう。人間は、迷子であることそれ自体を生きながら他愛なく他者にときめいてゆく。なのにいまどきの女たちは、迷子になることを否定しながら、男を吟味査定し男の扱い方がちゃんとわかっている「いい女」になろうとがんばる。それがたぶん、不自然なのです。
迷子であることを生きられなくなっているという、その強迫観念で「いい女」になるためのハウツー本にすがりついてゆく。
とすれば、当たり前のように迷子であることそれ自体を生きている女を、今どきの言葉で「天然」というのでしょうか。
男も女も、もともと他愛なく相手にときめいてしまうような部分を持っているはずなんですけどね。女なら嫌なタイプの男に対する拒否反応はあっても、自分から男を物色してゆくというのは、やっぱりなんか変ですよ。



昔は、男が「いい男」にならないといけないという強迫観念で迷子になっていました。だから、「男性論」の本が売れた。そして「いい男」であることを見せびらかせばもうワンランク上の女をつかまえることができたかといえば、けっきょく女に引かれてしまうだけで、あげくの果てに「あの女は男の値打ちがわかっていない」などと愚痴るのが関の山でした。
団塊世代以降、急速に女に捨てられる男が増えました。いったんつかまえても、けっきょくは逃げられた。いい男であることを見せびらかしたがるような、そんな不自然でわざとらしい男と一緒に暮らすなんて鬱陶しいですよ。
そして今、「いい女」になったつもりの女たちがよりランクが上の男をつかまえようとしてつかまえきれないでいる。そんなのは、昭和の男性論の焼き直しにすぎない。
男の扱い方なんか研究しても、他愛なくときめいてゆく心を持っている女の輝きには負けてしまう。誰にでも他愛なくときめいてゆくわけではないのだろうが、そういう女はたぶん、男の扱い方を研究するような恨みがましさは持っていない。



どうして「いい女」であることを見せびらかそうとしなければならないのか。
ここには、かんたんには片付けられないさまざまな問題が潜んでいるように思えます。
「いい女」はちやほやされて、そうでない女は無視される、という階層というか二重構造が出来上がっているのでしょうか。男たちはみんな「いい女」のところに群がってゆく。「いい女」の方も、見せびらかしてどんどん男を引っ張り込む。男はもう、自分から寄ってゆくのではなく、女に引っ張り込まれてばかりいる。
「いい女」になろうと努力すれば誰でもなれる、というような努力主義の世の中でもあります。化粧とかおしゃれとかプチ整形とか、それから「いい女」になるためのハウツー本で男の扱い方を磨くとか、まあいろいろ努力の方法はあるのでしょう。
なんだか、そんな努力をしないといけない世の中になってしまった。しないと落ちこぼれるし、すればいい思いができますよとマスコミや商品を売ろうとする企業が煽り立ててくる。世の中の動きがもう、そのようになってしまっている。
そして身近な男と結婚するなんてつまらないことで、よりランクが上の男をつかまえるのが女の幸せだと女どうしが競争している。
そうやって女ががんばってくれないと世の中の経済が活性化しない。「いい女」になろうと努力しないとバスから振り落とされる世の中になっている、ということでしょうか。
たぶんもう、小学校のときからそんな路線が敷かれているのでしょうね。いや、生まれたときから、ということでしょうか。
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