目の前のこの世界・ここだけの女性論3


女は、自分が女であることを忘れたがっている。
怒っていようと、笑っていようと、泣いてかなしんでいようと、ぼんやりしていようと、女は、そうやって自分が女であることを忘れてゆくのだろうし、忘れているときに輝いている。
女を意識して女を見せつけられても、男は引いてしまう。
女にとって、女であることを見られるのは、きっと恥ずかしいことでしょう。困惑するというのか。
年寄りのばあさんは女として見られたがっている。つまり女として見られたがったり見せ付けようとすることはもう、女としての輝きを失いかけている兆候だともいえる。
女子高生のミニスカートは女であることを見せびらかしているのかといえば、そうともいえない。彼女らは、そうやって「見たっていいよ」というそのいさぎよさを持とうとしている。女であることを強く意識しはじめる年ごろだからこそ、そのしんどさから自由でありたいと願う。
大人の女は見られたがっているが、女子高生は、見られることを受け容れながら、それを忘れようとしている。
隠すと、よけいに女であることを意識してしまう。どうしても人が自意識を持ってしまう時代だから、もう隠すだけではすまなくなってなってきているのでしょうか。
「えいっ!」と振り払う勢いが必要になっている。
思春期の娘が女であることを意識するほかないしんどさは、昔よりももっと過激になってきている。
いずれにせよ女は、女であることを忘れながら輝いてゆく。



大人の女は、女であることを見せびらかしていないふりをしながら、下心で見せびらかそうとする意欲というか企みをたぎらせている。今どきの女性論はそういうタッチの巧妙な駆け引きを教えてくれるが、そのへんのところはもう、女子高生のようにシンプルでいさぎよいほうがずっと輝いている。
まあ若い娘は、自分の中の自意識と戦っていますよ。
大人の知恵がついてくると、自意識を磨きにかかる。あまり容姿に恵まれない女がそういうことを覚えてますます泥沼にはまっていったりする。それで成功している大人がいるとしても、分不相応にというか場違いに真似をすると、ただの自分探しの堂々巡りのような悲惨なことになる。
「こうすればきれいになりますよ」なんて、よけいなお世話です。そういうことにむやみな労力を浪費していると、知性や感性が先細りしてゆく。人それぞれの「今ここ」の世界があるのだし、その世界をどう生きるかは、他人がとやかく指図できることではないでしょう。
「今ここ」のまわりの世界に反応しながらその人の知性や感性が育ってゆくわけで、それを失って大人の自意識・自己愛の世界にはまり込んでしまったら元も子もない。
早くから自分を見せびらかしたり男を上手に扱ったりする処世術を覚えていったあげくにトウが立ってきたころになってあわてて婚活をはじめるというのも、なんだかきつい話です。
「反応する」ということは、生き物としての生命力の問題でもありますからね。命の輝き、というと陳腐な言い方になってしまうのだけれど、自分がこの世界に生きてあるという思いは誰しも抱いてしまうわけで、その問題はもう自分で解決するしかない。なぜならその世界は、あなただけのあなたの目の前の世界なのだから。



女の生き方を捜しあぐねている若い女たちがいて、女として生きてきた人生を自慢したがっている大人の女たちがいる。これで今どきの女性論の需要と供給のバランスが調和している、ということでしょうか。しかしそれは、自慢したがっている大人の女たちが若い娘を不安にさせている、ということでもあります。大人の女たちが妙に自慢たらしいことをいわなければ、若い娘も不安にならなくてすむ。若い娘がいじましくあれこれ「いい女になる方法」や「幸せになる方法」を探してばかりいるから、大人の女の自慢話につけ込まれる。
たぶんもっと世代間の対立があっていいのでしょうね。
いい女自慢や幸せ自慢ばかりする大人の女なんか、ろくなもんじゃないですよ。若者にやさしくアドバイスをしているというポーズをつくりながら、じつは自慢してうぬぼれているだけなのです。
そんな大人の女よりは、若くて途方に暮れている娘のほうが、ずっと魅力的です。若い娘は、途方に暮れているというそのことを生きればいいだけです。男は、そんな娘と一緒にいたいと思う。
すでに正義のがわに立ってしまっている女なんか、うっとうしいだけです。そんな大人の女たちの真似をなぜしなければならないのか。若いくせに、自分もそうやって世間の甘い汁を吸って生きてゆきたいなんて、いじましすぎますよ。



自分の未来の人生設計のことなんか忘れて、「今ここ」に体ごと反応してゆけることこそ、若い娘の特権でしょう。
生きていれば、どんなことに出くわすかわからない。それで不幸になるのも幸せになるのも、どちらも人生であり、どちらが待っているのかとわくわくしながら生きてゆけばいい。不幸になってもやり直しはきくし、不幸を生きることの味わいもある。
どんな人生がすばらしいかということなど誰にもわからないし、人の心はどんなことでも受け入れることができる。ブスでも貧乏でも病気でも死でも受け入れる。人は、そこから生きはじめる。
どんなに生きればいいかということがわかってしまうことほどつまらないこともない。出たとこ勝負で体ごと反応してゆくことこそが、あなたの知性や感性を磨き、輝かせる。
大人の意地汚く計算された人生が、そんなにうらやましいか。そんなことの真似ばかりしていたら、あなたの脳みそもどんどん腐ってゆく。
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