ときめきとかなしみ・ネアンデルタール人と日本人79


人と人のあいだにはある「断絶」が横たわっているからこそ、他愛なくときめき合う関係にもなれる。
もう、愛とかヒューマニズムなどいうものはいらない。人間はもともと他愛なくときめき合うようにできている。そういう関係になるのが難しい社会であるとしても、そういう関係はいたるところにある。
親子といえども、むやみにそうした「関係の意味」など振り回さない方がいい。子供が「そんことなど知ったこっちゃない」といっても、あなたを愛していないわけではない。
この世に自分以外の人間が存在すること、それだけでもう、涙が出るほど不思議で素敵なことだ。それ以上の「関係の意味」なんかどうでもいいではないか。
子供をそうした「関係の意味」に取り囲んで支配してゆこうとするから、子供が逃げ出したくなる。逃げ出したくなってはいけない、などというべきではない。親子であれ男と女の関係であれ、そうした「関係の意味」に取り囲もうとすれば逃げ出したくなるのが人間なのだ。



まあわれわれはこの社会の制度性との「関係の意味」に取り囲まれて暮らしており、つい人に対しても「関係の意味」に取り囲んでしまおうとするのだが、その態度は人を不快にも不安にもさせるということも知っておいた方がいい。
われわれが女や子供に背かれ逃げられるとき、だいたいわれわれのそうした態度が契機になっている。
人間は「関係の意味」から逃げ出したくなる生き物である。それは、ひとりになりたいからではない、「関係の意味」から離れて他愛なくときめいてゆくことができる存在だからだ。
「関係の意味」に取り囲まれてしまうと、他愛なくときめいてゆく心をスポイルされそうな心地に浸されてしまう。
思春期の子供は、そうやって心が家から離れてゆく。
思春期は身体の細胞が大きく入れ替わる時期らしく、心が不安定になる。その不安定な心こそが、他愛ない他者に対するときめきを育てる。
原初の人類だって、二本の足で立ち上がったことによる不安定な心で他愛なく他者にときめいていったのだ。
この生に対する嘆きとともにある不安定な心から、他者に対する他愛ないときめきが生まれてくる。



生き延びようとすることは、この生を嘆いていないということであり、すなわちそれはときめく心が希薄になっているということなのだ。そうやって人は、死後の世界だの生まれ変わりだのという概念を捏造してゆく。
死に対して親密だということはこの生を嘆いているということであり、死がこの生の延長ではなくひとつの断絶だと意識しているということである。この生を嘆いているものは、断絶であるということそれ自体が親密になれる契機である。そうやって古代人は「死んだら何もない黄泉の国に行く」といっていた。そうして「今ここ」の他者に他愛なくときめいていった。
日本列島の文化の基底には、生きてあることに対する「嘆き」が息づいている。他者を「関係の意味」に取り囲んでこの生を止揚してゆくような文化ではない。死に対しても他者に対しても「断絶」が意識されている。だから、挨拶するときには深く頭を下げてお辞儀をする。断絶を意識してゆくことがときめいてゆくことでもあるのだ。



古代人は、他者とのあいだの「断絶」を意識していたからこそ、他愛なくときめき合っていた。
彼らは、「関係の意味」に浸ってゆくということはしなかった。
親子の関係も、男と女の関係も、男どうし女どうしの関係も、「関係の意味」を持とうとしなかった。縄文時代に大きな集団としての共同体を持たなかったということは、そういうことを意味する。夫婦とか親子という「関係の意味」の意識がはっきりしていれば、そこから共同体が生まれ育ってくる。彼らにおいては、すべての関係が「断絶」していた。だからこそ他愛なくときめき合っていた。
われわれ現代人だって、べつに親子や夫婦や恋人や友達や仲間という「関係の意味」を意識しなくても、人と人としてときめき合う関係性ははたらいているはずである。われわれが生き物であるかぎり、この世界の孤立した個体としての存在感覚は避けがたく持たされてしまっている。誰もこの世界の一部としてこの世界とつながった存在であることなんかできない。テーブルの上に置かれたリンゴは、テーブルの一部ではない独立した存在である。それを知ることは、この身体がこの世界の一部でないと知ることなのだ。



縄文人は、誰もがこの世界の孤立した個体として存在しつつ、「関係の意味」を意識することなく他愛なくときめき合っていた。
縄文集落は、ほとんどが10戸か20戸の小集落ばかりだった。彼らは、「関係の意味」に対する意識が希薄だった。しかしそんな山の中の孤立した小集落が成り立っていたということは、それでも血や物や情報は停滞することなく動いていたということを意味する。ひとつの地域の特産品や土器の様式は、たちまち広く伝播していった。言葉だって、どこに行っても通じないということはなかったにちがいない。それは、男たちが山道を歩きまわって旅をし続けていたからであり、集落はそれを受け入れもてなす女子供だけのものだった。
おそらく、集落どうしの関係はほとんどなかったのだろう。あれば、やがてひとつの大きな集落になってゆく。しかし、実際には1万年もそんな状況が続いた。
それは、人と人が断絶しつつ他愛なくときめき合っている社会だったということを意味する。そうやって個々の集落は孤立しながら、しかし日本列島がすでにひとつの大きな集団の単位になっていた。それぞれが孤立しているのに、どこに行っても同じような言葉を使い、同じような暮らしをし、同じような世界観や生命観を持っていた。
まあ氷河期明けの文明社会では人と人が「関係の意味」を意識しつつ干渉し合いながら共同体(国家)の結束をつくっていったわけだが、絶海の孤島であった日本列島ではそうした観念性=集団性とは無縁の歴史を歩んできた。
大きく高度な集団性を持っていたのに、人と人の「関係の意味」に対する意識は希薄だった。
縄文人は、たとえ親子であろうと、他者を「関係の意味」の中に取り囲んで支配してゆくということはしなかった。男と女のあいだにだって、婚姻関係という意味などなかった。
それでも、人と人は、他愛なく豊かにときめき合っていた。彼らのあいだに「関係の意味の中で干渉し合う」という生態はなかった。たがいの断絶を意識しながらたがいにときめき合い見守り合う関係になっていた。



干渉しないで見守る……これは人間の根源的な関係性である。
二本の足で立ち上がった原初の人類は、たがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくって向き合いながら「干渉しないで見守り合う」という関係になっていった。
人と人が「関係の意味」を意識しながら干渉し合う関係になってきたのは氷河期明け以降のことで、原始人にそんな関係意識はなかったし、日本列島ではその原始性をそのまま洗練発達させて現在に至るまでの文化の基礎にしてきた。
もちろん共同体の制度は個人を監視し干渉してゆく装置であるし、その中のつまり社会的な人と人の関係もそうしたかたちになってしまっているのだが、それでもプライベートな暮らしの文化においてはそうした関係性は残っている。日本的なもてなしの作法の基礎は「見守る」ということであり、今や世界中の先進国のもてなしの作法がそういうかたちになっている。
サービスの文化とは、「見守る」作法であり、むやみに干渉して世話を焼くというのではない。
日本列島ではすでに縄文時代からこのサービスの文化に目覚めていた。縄文時代は共同体が存在しなかったぶんだけ、なお純粋にその作法が洗練発達していった。



「見守る」という関係には、「断絶」が意識されているのだから、必然的に「別れ」がともなっている。むしろ、人と人は別れてゆく関係として向き合っている、という自覚がある。
生きてゆくことは出会いと別れを繰り返してゆくことだ。そして、最後には誰もがこの世界と別れてゆく。
戦争ばかりしていると、死(=別れ)に対する意識が屈折してきて、死を怖がったり死に対して鈍感になったりする。
しかしネアンデルタール人縄文人は、つねに死んでゆく人を介護して見送るということをしていたから、死(=別れ)に対する親密さとともにそれを率直に受け入れるメンタリティが育っていった。それはまあ「見守る」という態度だった。
他者との関係に対する「断絶」が意識されていれば、死(=別れ)を率直に受け入れることもできる。おそらくサービスの文化は、その体験から生まれ育ってきた。
死んでゆく人を見守るということ、日本列島でサービスの文化が発達しているということは、呪術によって死にそうな人を生き返らせようとする歴史的な体験が希薄であることを意味する。それは「見守る」ということをしないで、他者の命を操作しようとする態度なのだ。
実際問題として原始人が死んでしまいそうな人を生き返らせるということは、ほとんど不可能である。それはもう、ただひたすら「見守る」しかない事態なのだ。その「見守る」ということを拒否して文明人は呪術に走ることを覚えていった。
日本列島は呪術の歴史が浅いからサービスの文化が発達した。日本列島の呪術は、仏教伝来以後のことなのだ。



日本列島よりも呪術の歴史が長い中国や韓国でサービスの文化が発達しているということもないだろう。むしろその呪術によって見守る=サービスの関係がないがしろになり、「干渉する」関係が発達する。この国でも、村落共同体はどうしてもそういう関係になりやすいという傾向はある。呪術とは、死に干渉する行為なのだ。良くも悪くもそういう社会では、人が人に干渉するという文化が発達する。
呪術を知らなかったネアンデルタール人縄文人はそのとき、死という別れを受け入れながら死んでゆく人を見守っていた。
縄文社会の小集落がいつまでたっても大きくなっていかなかったということは、つねに人と人の別れが起きている社会だったことを意味する。別れを避けて干渉し合ってゆけば、たちまち大きな共同体が生まれてくる。しかし干渉しないで「見守る」ことが彼らの人と人の関係の作法だった。それは、そこに呪術が存在しなかったことを意味する。
「別れる」ということを忘れて「関係の意味」に安住しようとして裏切られるということはよくある。それはもう、しょうがないことだ。人は、「関係の意味」に囲い込まれると逃げ出したくなる生き物であり、そうやって人類は地球の隅々まで拡散していったのだ。
人と人は「別れ」ながら向き合っている。
「見守る」というその態度自体に、すでに「別れのかなしみ」が滲んでいる。干渉しないで見守るとは、そういうことなのだ。
人と人が向きっているという関係自体に「別れのかなしみ」が滲んでいる。二本の足で立ち上がった原初の人類だって、そうやってたがいの身体のあいだの「空間=すきま」を確保し合っていたのだ。
まあわれわれは雌雄に分かれて(=別れて)存在している生き物であるわけだし、「別れ」すなわち「他者との関係の断絶」の感慨はこの生の通奏低音であるのかもしれない。



日本列島の民家は、どうして屈んで出入りするようになっているのだろうか。それはもう、縄文時代からずっと現代の一部の民家の様式にまで引き継がれてきた。茶室だってそのようになっている。何か日本的な世界観があるのだろう。
家の内と外には決定的な断絶がある、という世界観。
そこでいったん体を折り曲げるというのは、「いったん死ぬ」すなわち「みそぎをする」ということだろう。
新しく生まれ変わって家の中に入る。新しく生まれ変わって家の外に出る。
つまり、出るときには家の中との別れをし、入るときは外の世界との別れをする。
出入り口は、生と死の境目である。どちらが生でどちらが死だということもないのだが、何か決定的な断絶がそこに印されている。
そこは、ひとつの「別れ」を刻印している場所である。
縄文人は、そこで何か気持ちが入れ替わるということに気づいていた。
もしかしたら挨拶するときに深くお辞儀をするという習俗も、この出入り口での動作から派生してきたのかもしれない。
気持ちをあらためる、という作法。
人と出会えば、気持ちがあらたまる。つまり、ときめくということ。別れのときも、かなしみが湧いてくるというかたちで新しい気持ちになる。
体を折り曲げる、すなわちお辞儀をするとは、新しい気持ちになるという作法なのだ。
人と出会ったり別れたりすることは「新しい気持ちになる」という体験であり、それは、「みそぎ」を果たしたまっさらな心になるということだ。
まっさらな心は、他者に対して何をしようという計画もない。他者に反応してゆくだけである。
日本列島の関係性は、他者に反応してゆくだけで、何をしかけてゆこうかと計画することではない。もてなすといっても、あくまで「反応する」という作法なのだ。
まあ「見守る」ということだって、いつでも反応できる用意をしておく、ということだろう。


10
「干渉する」のではなく「反応する」という関係性。
それは、いわれたことをする、という受け身の態度とはちょっと違う。相手は何がしてほしいのかを察することができないといけない。そういう能力持ったまっさらな心になるために、体を折り曲げてお辞儀をする。
「反応する」能力がなければ「見守る」ということはできない。
「反応する」ことができるまっさらな心になるために家の出入口では体を折り曲げる。
日本列島の人と人の関係性は、「反応する」ということにある。それは、あらかじめ用意することはできない。その場の即興で決まる。
即興性を持っていなければ「見守る」ことも「もてなす」こともできない。
つまり「反応する」態度は他愛なくときめいてゆくまっさらな心から生まれてくるのであり、そのために家の出入口で体を折り曲げる。
機転がきくとか、そういうこととはちょっと違う。古代人は、それは心構え=心映えの問題だと考えていた。
まあ「ことだまの咲きはふ」という事態も豊かに反応してゆく即興性によってもたらされるわけで、けっきょくは原初以来の他愛なくときめいてゆく心構え=心映えの上に成り立っている。
おそらく世界中で、それが人と人の関係の基礎であり究極であるのだろう。その心構え=心映えは世界中で通じるし、そこから高度なサービスの文化が生まれてくるし、それがまあ人間の知性や感性の本質にもなっている。
ただときめいてゆけばいいだけだが、それがどんなに難しく高度なことかということもじつは誰もが知っている。
無意識というのは、とても高度な心の動きなのだ。それを文化として昇華してゆこうとする人間のいとなみがある。
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