壁画の起源・ネアンデルタール人と日本人・15


ひとまず人類学の常識では、氷河期の北ヨーロッパの壁画芸術は「集団運営のためのモニュメントとして生まれてきた」ということになっているのだとか。
何いってるんだか。俗物根性丸出しのこんな安っぽい解釈を振り回して、何がうれしいのだろう。
ナチスソビエト共産主義の壁画じゃあるまいし、原始人も同じような動機を持っていたといいたいのか。
それは、古代エジプトの神殿の壁画とも違う性格のものだった。原始人にとっての洞窟の壁は、彼らの純粋な絵画衝動のためのキャンバスだった。それだけのことであり、そこのところを人類学者たちは何も問うことができていない。
人間の絵画衝動の根源とは何か?と、なぜ問うことができないのか。
これから、彼らのその「集団運営のためのモニュメントだ」という愚劣極まりない説に対する反論を書いてゆこうと思う。
人間が絵を描くということは、そういうことではないのだ。そこのところをあなたたちはなんにも考えていない。
何はさておいてもそれは、原始人はどんな思いで日々を生きていたかという問題であり、そこから生まれてきた絵を描かずにいられない衝動とはどのようなものだったのかと問われなければならない。
またそれはクロマニヨン人によって突然3万年前ころからあらわれてきたといわれていたのだが、最近では、もっと前の時代から存在していたという説も出てきている。
集団的置換説の提唱者たちにとっては突然現れたということにした方が都合がいいわけだが、それ以前のアフリカにヨーロッパより進んだ技法の壁画あったという証拠など何も発見されていないし、その後にあらわれたアフリカの壁画とヨーロッパのそれとでは、技法もセンスもまったく違うのである。ここのところも、人類学者たちは何も考えていない。
ヨーロッパであれアフリカであれ、その壁画芸術は、突然あらわれたのではない、アフリカにはアフリカの、ヨーロッパにはヨーロッパの、人が絵を描くということの長い長い歴史があるのだ。



ヨーロッパではフランスのラスコー洞窟とかスペインのアルタミラ洞窟の壁画が有名だが、それらの精緻な描法を原始人が突然獲得したはずがない。そのレベルの技術を獲得するためには、その壁面を何度も描いては消してという歴史があったはずである。いや、消さないまま勝手に上から描いた絵や、子供のいたずら描きのような絵もたくさん混じっている。
べつに「集団のモニュメント」としてその壁面を崇めていたのではない。大人も子供も、その壁面の余白にみんながめいめい勝手に描いていっただけのことだ。
人類学者は、壁画を描くことを、「象徴表現の知能に目覚めた」などと説明してくれるのだが、それは、大人や熟練者ばかりが描いていたとは思えない。もしかしたら最初に壁画を描いたのは子供たちだったのかもしれない。
子供というのは、そういうことをしたがる人種である。現代でも、幼児はすぐに冷蔵庫や箪笥や壁や塀などにいたずら描きをしてしまう。彼らは、いったいなぜそんなことをしたがるのだろう。おそらくそこに、人類の壁画芸術が生まれてきた契機を解くカギがある。
壁画芸術といっても、リアルで精緻な絵ばかりではない。何を描こうとしたかわからないような絵もたくさんある。たとえば、微生物の繊毛のようなもやもやっとした線が無造作に描き散らされているだけの部分もある。しかしそれだって、そこにそういう線を描かずにいられない何か根源的な絵画衝動がはたらいていたのだ。
洞窟壁画は、何万年もかけてだんだん精緻な絵になっていったのだ。精緻な絵が突然出現したのではない。
まっさらな壁面があったら何かを描いてみたくなる。その衝動に象徴表現もくそもあるものか。壁画というものが宗教活動や集団運営のための壁面になっていったのは、氷河期明けの文明の発生以降のことで、まあ現代人がそうやって壁画を制作しているというだけのことだ。
まず、人々に絵を描かずにいられない衝動があったということだ。ただ描いてただ眺めていただけだ。おそらくそれによって癒される心があった。何はともあれ人が生きてあるというそのこととかかわっているのが絵画というものの本質であって、起源としての壁画が集団を運営するためのものとして生まれてきただなんて、何をとんちんかんなことをいっているのだろう。



人類のいたずら描きの痕跡は、30万年前のネアンデルタール人による牛の骨に連続した曲線を刻んだものが発見されている。そこからはじまって2万年前のラスコーの洞窟壁画に辿り着いたわけで、3〜4万年前にアフリカ人がやってきていきなりそんなことをはじめたというようなことではない。
石器の刃を使ってそこに線を刻んでゆくことは、けっしてかんたんなことではない。そんな行為が生まれてきたということは、そのずっと前から地面や岩の表面に何かを描いたりするようなことはなされていたのだろう。
石の表面に何かを描くための顔料などはもう、何十万年も前に発見されているし、地面に何かを描くことなんか石や木の棒を拾ってくればすむことだ。
ただもう無意識のうちに何げなく描いてしまう……そういう人間的な心模様があったわけで、そこのところが問われなければならない。
それは、象徴表現に目覚めたとか、そんなことではない。
たとえば、テレビの画面に人間が映っていれば、それが人間の画像であることくらいは猿でもわかる。わかることは、象徴思考か。いや、象徴思考くらいチンパンジーでもできるということは、サル学者のカードを使った実験などでわかっている。
ひとまず、「象徴思考」などという、知ったかぶりのインテリが合唱している薄っぺらな概念など、どうでもいい。
なんとなく描いてみただけだ。何を表現しようとしたのでもない。
それは、「手を動かす」という行為であり、純粋な「描く」という「行為」だった。
手を動かしてそこに何かを記さずにいられない衝動があった。そこのところを、あなたたちはなぜ問おうとしないか。まあ、問えるだけの思考力も想像力もないのだろう。



人の心は、抵抗感のないまっさらな面と向き合うと、なんとなくの不安を持ってしまう。
意識は、それが何であれ、そこに物があれば注意・関心が向く。何もなければ、意識は、行き場をなくして自分=身体に還流してゆく。それは、生きてあることに対する幻滅=嘆きを抱えた存在である人間としてはなんとも居心地が悪いことだ。
つまりその平面に何かを記すことは、身体の居心地の悪さ、すなわち生きてあることの嘆きを癒す行為なのだ。
人間は、ほかの動物以上に身体の居心地の悪さを抱えている存在だから、ほかの動物以上に外の世界に対する関心が強い。身体の外に関心を向けていないと生きられない存在である。
人間の赤ん坊は、生後半年くらいでもう、ボタンを押すという行為を覚える。それは、意識を身体から引きはがして外に関心を向ける行為である。お絵描きは、すでにここからはじまっている。
赤ん坊は、この世の苦労人である。彼らはかんたんに死んでしまう存在であり、死と背中合わせの状態を生きている。幼児だってそういう余韻を引きずっている存在だから、意識を身体から引きはがす行為として、二本の足で立ち上がり、言葉を覚え、お絵描きに熱中してゆくのだ。
氷河期の極北の地という身体にかかる負荷のきわめて大きい地で暮らしていたネアンデルタール人クロマニヨン人だって、同じように死と背中合わせの状態を生きていたのであり、意識を身体から引きはがそうとする願いは切実だったはずである。身体のことなど忘れて生きていたかったというか、身体に対する意識がフェードアウトしていかなければ眠りにつくことができなかった。
洞窟は、彼らの寝室だった。このことは、この問題を考える上で重要である。
また昼間でも、冬場の何もない不毛の景色の中に置かれていれば、それに代わる関心を向けることのできる眺めはどうしても欲しくなる。長い長い冬の何もない白一色の世界に置かれていれば、どこにも関心を向けようがなくなって、発狂しそうになる。氷河期の極北の地の冬の原野とは、そういう景色だったはずである。その発狂しそうな心が癒される行為として、絵を描くということが見出されていったのだ。
(発狂しそうな)自我をフェードアウトしてゆく行為……原始人の壁画芸術は、人類学者が語るような「集団運営のためのモニュメント」とかというようなものではなく、もっと無邪気でもっと切実な、この生の実存の問題として生まれてきたのだ。



それは、意識的な行為ではなかった。無意識のうちに「描く」という行為をしてしまっていたのだ。絵を描こうとしたのではない、描いてしまったあとにそれが「絵」であることに気づいていっただけのこと。
われわれの生のいとなみはまあそのようなことで、「意識」とは、この生を「つくる」はたらきではなく、この生を「追跡」するはたらきなのだ。多くの人類学者はそこのところを誤解しているから、「起源論」を考えるとき、「まずつくろうとする意識(=知能)が生まれてきた」と発想するのだが、そうではない、無意識のうちにつくってしまってからそれは何かと「追跡」していったのが起源のかたちなのだ。
つくろうとする意識(=知能)が文化の起源=イノベーションの契機になるのではない。
絵を描こうとしたのではない。自我、すなわちこの身体やこの生の居心地の悪さをフェードアウトしようとする無意識の衝動が「描く」という行為をうながし、それとともに表現が高度になっていった。
したがってわれわれが人類史の壁画芸術の起源を問うとき、まず、無意識のうちに描いてしまったたんなる「いたずら描き」がどのように発生してきたか、と問われなければならない。
二本の足で立ってこの身体やこの生の居心地の悪さを強く抱えてしまっている人間は、もともとそういうことを無意識のうちにしてしまう存在なのだ。この身体やこの生の居心地の悪さを強く抱えてしまったから原初の人類は二本の足で立ち上がっていったのだ。
30万年前にはすでに牛の骨に線刻していたということは、50万年前か100万年前にはもう「いたずら描き」の生態は生まれていたということだろうか。
なぜ線刻したかといえば、そこに、この生やこの身体の居心地の悪さが極まっている状況があったからだ。何かの目的があって意識的に線刻していったのではない。そのとき無意識のうちにそういうことをしてしまう心模様があったわけで、おそらく、長い長い氷河期の冬のすべてが不毛の景色の中に置かれて発狂しそうになっている心があったのだ。
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