都市の変貌・「時代は変わる」13


戦後という時代をリードしてきたのは、良くも悪くも都市に流入してきた人たちだったのかもしれない。
ただ流入してきただけではない、そこでのし上がっていって都市の動きをリードし、都市そのものの姿を変えてゆく存在にもなっていった。
「郷に入らば郷に従え」で、むかしの都市流入者は、何代もかけて都市生活の作法を一から覚えていった。それが「三代住めば江戸っ子」という意味だったのだろう。
しかし、戦後の都市流入者はもう、そんなまどろっこしい手続きなど踏まなかった。「新しい時代をつくる」という戦後社会のスローガンのもと、都市を自分たちが住みやすいようにつくり変えてゆき、彼らの流儀が新しい都市生活の流儀になっていった。
終戦直後の1945年11月の東京の人口は約350万人で、20年後の1965年には1000万人を突破した。約3倍。おそらくこのときにはもう、戦前からの都市住民よりも戦後の都市流入者の方が多くなっていたのかもしれない。都市流入者は大人になってから単身で流入してくるものがほとんどだから、労働者の人口としては圧倒的に都市流入者の方が多かったのだろう。
であれば、そういうものたちが住みやすいように町をつくり変えていった方が町は活性化する。60年代後半からはもう、東京の消費文化は都市流入者のためのものが主流になっていった。そのころからあらわれてきたパルコなどのショッピングモールは、まさに都市流入者こそが主な顧客だった。
そうしてファッションにしろ流行歌にしろ、東京の流行は、都市流入者がつくっていった。都市流入者の方が流行に敏感だったし、戦後の東京の街の風景は、ハードの面でもソフトの面でも、都市流入者によってつくり変えられていった。



戦後の歌謡曲は、都市流入者の大切な娯楽だった。50年代には彼らのための「故郷に帰りたい」という歌謡曲がたくさんつくられ、60年代には都会の片隅で自閉的になりそうな若者を慰撫するフォークソングが大いにもてはやされたが、70年代以降は、それに代わってニューミュージックというひとまず都会的なタッチの歌が流行していった。そのとき都市流入者はもう、東京は自分たちの街だという意識になっていたらしい。
東京に出てくるものは、都会へのあこがれと、それなりの上昇志向を抱いているのだろう。
学問とか学歴のために出てくるにせよ、金を稼ぐためにせよ、東京の人間には負けたくないという意識もあるのだろうか。彼らは、いったん東京になじんでしまえば、東京の人間以上に東京になじんでゆく。挫折するものもいれば、都会人以上に都会人らしくなってゆくものもいる。
1975年にヒットした太田裕美の「木綿のハンカチーフ」という歌は、都会になじんでしまった男の子が恋人が待つ田舎に帰る気をなくしてしまうという歌詞だが、これはもう都市流入者の時代になったことを象徴する歌だったのかもしれない。
彼らはもう、むかしの都市流入者のように、古くからの都市住民から都市生活の作法を学ぶということはしなくなっていった。テレビとか情報誌のおかげで、田舎から出てきたものの方が東京のことをよく知っていたりするようになった。
なんといっても、都市流入者が町にあふれている時代になったのだ。とくに繁華街に出かけて行く頻度は彼らの方がずっと多かったのだから、そこはもう彼らに占拠されたようなものだった。
おそらく、ビルの建設ラッシュではじまった70年代以降の東京の街の変貌は、都市流入者の上昇志向を満たすようなかたちで進められた。町全体の調和・統一を按配するというより、それぞれのビルが競い合うようにして建てられていったし、その混沌が面白いと外国人に評されもした。
べつに町の調和・統一を考える必要があるのかどうかわからないが、表層的な見かけのインパクトを競うというその街づくりのコンセプトは、確かにポップでポストモダンな精神だったのかもしれない。
彼らは郊外の建売住宅に住み、東京の街は経済活動と娯楽を享受する場であり、べつに暮らしの場ではなかった。彼らは、東京に出てくる時点で、すでに「暮らしの文化」は捨てていた。
彼らは、暮らしの文化を喪失した人々だった。それはつまり、人と心のやりとりをすることを捨てて都会に出てきたということだ。いきなり都会に出ていって人と心のやりとりをすることなんかできない。だから、都会の暮らしはもう、心のやりとりなんか省いて、表層的に仲良くワイワイやっていられればそれでいい。まあそれも、まさしく都会の消費文化のひとつの達成であり、戦後的なポップカルチャーの繁栄の証しである。
良くも悪くも、戦後の東京は、都市流入者によって繁栄していった。



都会の暮らしと田舎の暮らしでは、人と人の関係の作法が違う。どちらがいいとか悪いというのではなく、とにかくちょっと違う。
田舎者どうしでも、鹿児島から出てきたものと青森から来たものでは、同じというわけにはいかない。
田舎から出てきたものが都会の暮らしでとまどうのは、何はさておいてもまず人と人の関係だろう。だから、田舎から出てきたものにとっては、人と人の関係はできるだけわかりやすいものであってほしい。
わかりやすいものにするためには、心のやりとりを省いてできるだけ表面的なものにした方がよい。
戦後の東京は、都市流入者が暮らしやすいように人と人の関係が表面的でわかりやすいものになっていった。
それは、むかしからの都市の住民の作法とはちょっと違っていた。
むかしからの都市住民が圧倒的に多いのならそれに学ぶしかないのだが、都市流入者の方が多くなれば、都市流入者の作法が主流になってゆく。
田舎から出てきたものの都会での暮らしは、まず人と人の関係をつくってゆくところからはじまる。観光旅行ではないのだから、東京タワーの場所なんか知らなくてもいいのだ。
何はさておいても人と人の関係うまくつくってゆかなければ、経済活動も遊びもできない。
たとえば、まず同郷のものどうしのネットワークに参加する。そこからネットワークの輪を広げてゆきながら東京になじんでゆく。つまり、都市流入者どうしの「人と人の関係はできるだけわかりやすいものがいい」という流儀のネットワークだ。
むかしからの都市住民は、そうむやみにネットワークを広げない。だから、山の手と下町というような棲み分けも起きてきた。しかし、都市流入者は、どこまでも広げてゆこうとするし、わかりやすい関係だから広げてゆきやすい。
戦後はもう、都市流入者のネットワークが東京中を覆っていった。



今どきの社会学者たちは「ネットワークは新しい時代の新しい人と人の関係だ」などと合唱しているが、それはむしろ、戦後の都市を覆っていった時代遅れの人と人の関係なのだ。そういう今や都市流入者の既得権益になっている都市における主導権を守りたくて、うわべの体裁だけの関係の中でしか生きられなくて、ネットワークなどと合唱しているのだ。
ネットワークを広げてゆくもっとも有効な方法は、人と人の関係を表面的でわかりやすいものとして図式化してしまうことだ。
しかし現在の都市はもう、それではすまなくなってきている。
みんなで一緒に酒を飲めば一気飲みして盛り上がるとか、もうそんな時代ではない。戦後の都市流入者はそうやってネットワークを広げていったのだが、彼らにも孫が生まれてきている。三代住めば「江戸っ子」である。孫たちはもう、そんな安直なネットワークの関係をつくりたがらない。
都会であれ田舎であれ、長く住みついていれば、人と人は避けがたく心のやりとりをするようになってゆき、そのための作法の文化が身についてくる。
このごろ「おもてなし」という言葉がよく聞かれるが、これだって人と人が避けがたく心のやりとりをしてしまう存在であるところから生まれてきた作法の文化であり、戦後の都市流入者がつくった表面的でわかりやすい人と人の関係が反省されはじめているひとつの兆候かもしれない。
田舎には田舎のおもてなしの作法があるし、都会には都会のおもてなしの作法があり、旅館のおもてなしの作法もあれば、フーゾクのおもてなしの作法もある。そしてこれらの文化は、人が住みついてまったりと暮らしているところから生まれてくる。
おもてなしは、たんなるかたちだけの問題ではない。人と人の関係の基礎としての心構えというか志というかセンスというか、それはもう、言葉の端々、態度の端々にあらわれてくる。
たとえば妙な自己アピールはしないとか、そういう「たしなみ」を持っていない人間とはつきあえない、というのがほんらいの都市住民の関係のセンスだったはずである。なぜなら、目の前のまったりとした関係においては、そんなことをしなくてもおたがいすでに気遣い合っているからだ。
上昇志向をたぎらせてあれこれネットワークを広げてゆこうとしているところにそういう気遣い合うセンスはない。
他者に気づいてゆくセンスのないものたちは、自己アピールし合ってはじめてわかり合った気になれる。わかるだけのセンスを持たないものたちが、わかりやすい関係をつくってゆく。戦後社会の繁栄は、いわば「おもてなし」のセンスを失った都市流入者による、人と人の関係が表面的でわかりやすい仲よしこよしのネットワークに覆われていったところから生まれてきた。
中国大陸や朝鮮半島は、日本列島に比べれば「おもてなし」の文化は希薄である。その代わり「ネットワーク」の文化は、日本列島よりもはるかに発達している。
日本列島は、「遠くの親戚よりも近くの他人」というのが基本で、そこから「おもてなし」の文化が生まれ育ってきた。それは、日本列島の歴史風土としての、今ここが世界のすべてで目の前の「あなた」が人間のすべてだという感慨の上に成り立っている。おもてなしとは、そういう「今ここ」のまったりとした関係を生きる作法である。
それに対して戦後の都市流入者は、都市の中でもネットワークで生きているからこそ、「遠くの親戚」とのネットワークも手放せなくて、いまだに盆暮れには帰省したくなってしまう。中国大陸や朝鮮半島の人々も、盆暮れの帰省はとても熱心である。
まあ盆暮れの帰省は、戦後社会の「ネットワーク症候群」がいまだに残っているという現象である。
戦後すぐの都市流入者はめったに帰省しなかった。だから「故郷に帰りたい」という歌が流行ったわけで、その後の経済繁栄とともに「ネットワーク症候群」が肥大化してくるにつれてやたらに帰省したがるようになってきた。そういう意味で表面的なわかりやすい人と人の関係を生きようとする「ネットワーク症候群」は、今が盛りだともいえるのかもしれない。
しかしそれでも現在においては、上昇志向をたぎらせて見えないところまでネットワークを広げてゆくのではなく、目の前の見える範囲でのまったりとした関係を生きようとする若者が増えてきている。
そのような戦後の都市流入者の孫たちが大人になって社会の中心の世代になってゆけばまた時代も変わってくるのかもしれない。
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