原始神道・「漂泊論B」35



原始神道とは日本列島土着の信仰のことであり、それはもう縄文時代からはじまっている。
弥生人は大陸からやってきた人々であるというのは嘘で、縄文人弥生人になっただけである。基本的には、日本列島の住民が狩猟採集の生活から農耕生活に変わっていっただけのこと。食い物や生活様式が変われば、人々の骨格も変わってくる。それに、ほんの少しは大陸の血が入ってきたということもあるだろう。
以前は、弥生時代は2000年前からの300年間くらいのことのようにいわれていたが、考古学の発掘が進むにつれ、800〜1000年間は続いたともいわれるようになってきた。それはつまり、縄文時代弥生時代境界があいまいで、両者の文化には連続性があることがわかってきた、ということだ。
たとえば、縄文時代は女子供だけの集落がほとんどだったから、土器は女しかつくらなかった。だから、あんな情念的というか装飾的なデザインになっている。しかし弥生時代になって旅に明け暮れていた男たちも一緒に定住して農業生活をいとなむようになれば、とうぜん男も土器づくりに参加してくる。そうなれば、男の感性によるデザインのものもあらわれてくる。男がデザインすると、わりとシンプルで機能的になる。その代わり男は体力があって大がかりな窯をつくることもできるから、高熱で焼いた耐久性のある土器になる。
大陸では最初から男も土器づくりにかかわっていたが、日本列島では弥生時代になってからのことである。だからその土器のデザインや焼き具合が大陸のものと似ているからといって、べつに大陸から伝わったのではなく、男がつくるとどこの世界でもあんなふうになるというだけのことかもしれない。
そしてそういう変化が急にやってきたのではないことが最近の考古学でわかってきたために、縄文時代弥生時代の境目がどんどんあいまいになっていった。
縄文人弥生人に変わっていっただけなのだ。
だから、日本列島土着の信仰も伝統文化も、とうぜん縄文時代までさかのぼることができるはずである。
古墳の年代推定もどんどん古くなってきて、いまや奈良盆地の箸墓という前方後円墳古墳時代以前の卑弥呼のものだともいわれるようになってきたし、弥生時代の墓だと思われていたものがじつは縄文時代のものだったというようなことも起きてきている。
つまり、信仰としての墓造りそのものも、縄文時代から弥生時代への連続性があることがわかってきた。
だったら、原始神道だって縄文時代以来のものに決まっている。



縄文人も原始人も、この世界をつかさどる「神」という概念もこの生をつかさどる「霊魂」という概念も持っていなかった。
彼らにとってこの世界もこの生も人と人の関係も、すべては「混沌=なりゆき」の現象であった。
神が存在するためには、この世界は混沌であってはならない。なぜなら神は世界をつくった存在だからだ。
霊魂が存在するためには、この生は混沌であってはならない。なぜなら霊魂はこの生をつかさどる存在だからだ。
日本列島の原始神道は、この世界の「混沌=なりゆき」を収拾してこの世界に秩序と安定をもたらすものではなかった。「混沌=なりゆき」それ自体を生きるところから生まれてきたのだ。
縄文人は、作為性を捨てて「混沌=なりゆき」それ自体を生きた。だから縄文時代は、1万年も続いてしまったのだ。彼らに大陸人ほどの作為性があれば、大陸よりももっと高度な都市国家をつくって見せたかもしれない。べつに、文化や知能が劣っていたわけではないのだ。
彼らは彼らなりに「混沌=なりゆき」を生きる文化を高度に洗練させていった。だから、平安時代の文学は、その当時の世界でもっとも高度に洗練された文学になった。
現在の「かわいい」のマンガやファッションの文化が世界中の人々を魅了していることだって、つまりは「混沌=なりゆき」の文化なのであり、そのことが高度で洗練されてあることにおいては、いまのところ世界中が太刀打ちできないらしい。そしてそれは、じつは縄文時代1万年の歴史が基礎になっているのだ。
氷河期明け以降の1万3千年のうちの1万年もそんな世界観・生命観で生きてしまえば、そうかんたんには変われないだろう。
日本列島の住民が、歴史的に「混沌=なりゆき」の文化風土を生きてきたということは、われわれにはこの世界やこの生に秩序や安定をもたらす神や霊魂を心底信じてゆくことのできる基盤を持っていない、ということである。
誰かが、「現在の日本は神がやせ細っている」といったそうだが、もともとこの国はそういう文化風土なのであり、そういう地下水脈が湧きだして「かわいい」というジャパンクールの文化が生まれてきたのだ。
まあ、原始的な心性としての「混沌=なりゆき」を生きる文化の洗練度においては世界中が太刀打ちできないのであり、そこだけは、日本人が世界にアピールできるチャームポイントになっているらしい。
それは、「日本的」というよりも「原始的」なのだ。「原始的」だからこそ、世界中の人々の心にも響くチャームポイントになり得ている。
原始的な心性は、人間であることのひとつの普遍性として、世界中の人々の心の中に息づいている。
それは、「作為性」を持たない「混沌=なりゆき」の世界観・生命観であり、この世界やこの生をつかさどる神や霊魂などという概念を持たない心性である。これが、原始神道の基本的なコンセプトだ。
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