縄文人の死生観・「漂泊論B」6

<はじめに>

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どちらかというと世間に背を向けたようなブログだからそんな場に参加する柄でもないのだけれど、だからこそたとえ少数でも「あなた」にこの言葉を届けたいという思いもそれなりに切実です。
このブログは直立二足歩行の起源やネアンデルタール人のことについて考える場としてはじめたのですが、それはつまり「人間とは何か」と問うてゆくことで、いつの間にか世の中の常識に対して「それは違う」と反論することが多くなってきました。
このままではみんなから愛想を尽かされる、と心配しながら書いています。
心配だけど、書かずにいられないことがある。
どこかで拾ってきた言葉をコピペして書いているのではないし、仲間がいるわけでもなく、ぜんぶ、ひとりで考えています。
自分でもどうしてこんなにもむきになるのかよくわからないのだけれど、とにかくここで考えたことをなんとしても「あなた」に届けたい。
俺が負けたら人間の真実が滅びる、という思いがないわけではありません。
というわけで、もしも読んで気に入ってもらえたら、どうか、1日1回の下のマークのクリックをよろしくお願いします。それでランキングが上下します。こんなことは「あなた」にとってはどうでもいいことなのだけれど、なんとか人に見捨てられないブログにしたいと願ってがんばっています。

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<本文>

縄文人の死生観・「漂泊論B」6


      1・歳をとることは「金縛り」になってゆくようなことだ
ある縄文学者が、医者の集まりの席で講演し、最後に「縄文人はどのような死生観を持っていたのか?」という質問をされてちょっと困ってしまった、と告白している。
死の恐怖というか、ターミナルケアは現代人にとって大きな問題である。
一般的には、長生きすることはめでたいことのようにいわれているが、人は、歳をとればとるほど死が怖いものになってゆく。
現代社会の死の恐怖は、人が長生きしてしまうようになり、長生きしたがるようになった、ということの問題なのだ。
縄文人の寿命は、ネアンデルタール人と同様、30数年しかなかった。
縄文社会に老人などいなかった。30歳をすぎればもう、いつ死んでも仕方ないと覚悟を決めて生きるほかない人生だった。
したがって、現代社会の老人の意識とは、いろんな意味で違っていたはずである。
人は、歳をとればとるほど死が怖くなってゆく。
誰だって死を前にすれば怖くもなるだろうが、若い方があきらめはよい。
それに、縄文人においては、「当分死ぬはずがない」と思っていられる人生の時間などなかった。風邪をひいただけでもあっけなく死んでしまうことも多かった時代なのだ。
子供も大人も、誰もが「いつ死んでもいい」と覚悟して生きるほかなかった。死の可能性は、誰もが等分に「いまここ」において負っていた。
これは、現代社会とはずいぶん違う。現代社会では、老人だけが死が切迫していていることを思っている。その疎外感。そうして、死ぬことによって決定的に社会から置き去りにされてしまうと思う。
老人であることと死んでゆくことの疎外感。
死ねば、自分自身からも置き去りにされてしまう。身体は消えても観念だけは永遠に生き続けるような錯覚がある。
現代人は自分が消えてしまうということをうまくイメージできないが、縄文人はそれをカタルシスにして生きていたから死を親密なものにすることができた……とういうことに問題のカギがありそうに思える。
現代人は、「当分死ぬはずがない」と思い、自分は社会(世界)の一部だと思って生きてきたから、老人になってからの疎外感がひとしおのものになってしまう。
人にちやほやされることを生きがいにしてきて、歳をとれば誰からもちやほやされないまま消えてゆかねばならない。
いまどきの老人は、自分を消すことのカタルシスを知らない。とくに団塊世代はそうだ。自分を見せびらかすことばかりして生きてきた世代であり、おそらく死ぬまでその習性を引きずってゆくのだろう。彼らは疎外感を生きる修練をしてこなかったし、自分を消して生きるという作法を持っていない。
「身体の孤立性」は人間が生きてあることの属性であり自然である。そしてその究極のかたちは、自分が「いまここ」に消えてゆくということにある。
縄文人のように「いつ死んでもいい」と覚悟して生きることは、身体が「いまここ」に消えてゆくことのカタルシス=快楽を汲み上げながら生きるということである。
こういうタッチを持っていなければ、死は、歳をとるほどにどんどん怖いものになってゆく。
ともあれ縄文人は、死はどこかに行くことではなく、「いまここ」に消えてゆくことだと考えていた。おそらくこれが彼らの死生観であり、日本列島の住民の無意識の底にある真に伝統的な死生観なのだ。そこから、「死んだら何もない黄泉の国に行く」という言い習わしが生まれてきた。それは、どこにも行かない、といっているのと同じはずである。
現代人は、生き延びようと未来のことばかり思って生きているから、死んだらどこかに行ってしまうことだというイメージになる。これは、仏教やキリスト教の死生観であるとしても、日本列島の土着の死生観ではない。
「金縛り」は怖いことではない。そのまま「いまここ」に消えてゆけばいいのだ。そういうタッチを持っていないから、「金縛り」で発狂して「パニック症候群」になる。
歳をとるとか病気になるということは、体が動かなくなってゆくことである。それは、じわじわ「金縛り」の状態になってゆくようなことだろう。そんなとき、「いまここ」に消えてゆくタッチを持っていないと、悪あがきをして発狂する。認知症になるとか。


     2・箱庭療法
旅に出ることは、身体の孤立性を生きることである。そうやって縄文社会の男と女は、たがいの身体の孤立性を確保して生きていた。
いつ死ぬかもしれない環境の人生だったから、身体の孤立性を生きようとする心も切実だった。
女は生まれながらにして身体の「無力性」や「受苦性」を追っているから、存在そのものにおいてすでに身体の孤立性を生きている。だから、あまり死ぬことを怖がらない。
しかし男は、女に比べると身体の「無力性」や「受苦性」に対する意識が希薄である上に、家族や社会に組み込まれてしまうと避けがたくその集団の運営を担う存在なり、集団の一部として自覚しながら身体の孤立性を失ってしまう。
縄文時代の男たちは、そういう身体の孤立性を失うという「けがれ」をそそぐ行為として旅に出て行った。
氷河期の日本列島の住民は、比較的大きく緩やかな集団で平地を移動生活して暮らしていた。
しかし氷河期が明けた縄文時代になって海面が上昇すれば、海岸の平地は狭くなり、しかもほとんどが湿地帯になっていった。
そうして山間地に移住してゆけば、狭い場所に小集団でかたまって暮らすようになる。
山間地の、しかも身を寄せ合うような小集落……そういう環境で暮らすことの閉塞感に男たちは耐えられなくなり、いったん狩の旅に出るとなかなか戻ってこなくなっていった。
氷河期の日本列島の住民は、山間地の狭い場所にひしめき合って暮らすということを知らなかった。だから、縄文時代になってからのそこでの暮らしを成り立たせるためにはもう、男と女が離れて暮らして関係を緩やかにするしかなかった。というか、自然にそういうかたちになっていった。
人の暮らしは、歴史と伝統の上に成り立っている。なのに、山間地の暮らしの歴史と伝統を持たないものたちがそこで暮らしはじめることを余儀なくされたのだ。
山の中に閉じ込められて男と女が毎日顔を突き合わせて暮らしていれば、とうぜん関係は煮詰まってくる。しかも彼らは、そういう暮らしに慣れていなかった。さらには、大勢でマンモスなどの大型草食獣の狩をするという氷河期の「お祭り」ももはやない。
そういう暮らしの中で山に狩りに出て、ほかの男たちの集団と出会って語り合ったり、見知らぬ女子供だけの集落を見つけて一夜の宿を乞うたりすることは、彼らの新しい「お祭り」になっていった。
そのようにして縄文時代の歴史がはじまった。
人間が狭いところでひしめき合って暮らすということはかんたんではない。いわば「金縛り」状態である。
しかしそれでも、そこに「いまここ」に消えてゆくという「祭り」のカタルシスがあれば暮らしてゆける。
縄文時代は、山の中でひしめき合って暮らすことから「いまここ」に消えてゆくカタルシスを汲み上げてゆく文化が生まれ育っていった時代だった。この「いまここ」に消えてゆく文化を基礎にして、後世の「無常観」とか、さらには「盆栽」趣味や「ウサギ小屋」で暮らす日本的な習性が生まれてきたわけで、そういう「箱庭療法」はこの国のお家芸なのだ。


     3・身体の解放としての「祭り」は消失感覚としてもたらされる
「祭り」がなければ、人間の集団は成り立たない。それは、「もう死んでもいい」という心地とともに「いまここ」に消えてゆく体験であり、人間の本性としての身体の孤立性を確保してゆく行為である。
そういう体験がなければ、「いつ死んでもいい」人生を生きることはできない。
たとえ若くても、「当分は死なない」とか「生き延びたい」などと思うべきではない。それによって人は、知性も感性も鈍くなってしまう。人にときめかなくなり、体の動きやはたらきが鈍くなり、生きてあることのカタルシス=快楽から遠ざけられてしまう。
快楽とは、身体の孤立性に身を浸して「いまここ」に消えてゆくことだ。人間にとって二本の足で立っていることは、そういう体験にほかならない
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、身体の孤立性に身を浸す快楽と出会った。それは、より密集した集団の中でより深く身体の孤立性を体験してゆくという、綱渡りのような行為だった。
原初の直立二足歩行は、密集した集団の中から生まれてきた。そうやっていったん身体の孤立性を失い、そこから二本の足で立ち上がることによってより深く身体の孤立性に身を浸してゆくという体験が生まれてきた。
人間にとって密集した集団は、身体の孤立性を失う場であると同時に、より深く身体の孤立性に身を浸してゆくことのできる場でもある。そういうコンセプトの上に二本の足で立つという姿勢が成り立っている。
人間は、そういう綱渡りという冒険をしたがる生き物である。
人間の心は、「金縛り」という状態を体験してしまうと同時に、そこからの解放を深く味わう体験もする。
人間社会の中で生きてあることは、「金縛り」と背中合わせの綱渡りみたいなものだ。あるいは、先が見えない細い穴をくぐってゆくようなことだ。
昔の人は、たとえば、雨雲が立ちこめる鬱陶しい夜だというだけでかんたんに「金縛り」になってしまったりしたらしい。だからこそ、そこからの解放としての身体が消えてゆくカタルシスもダイナミックに体験していた。
人間は、いったんそういう閉塞感の中に身を置き、そこからの解放としてのカタルシスを汲み上げてゆく、という綱渡りのようなことをしたがる。
その「金縛り」は、身体が消えてゆくことによってしか解放されないし、消えてゆけばこの上ないカタルシスになる。
群衆の中の孤独……そうやってサッカースタジアムやコンサートに何万人も集まってくる。そこで自分を忘れて熱狂してゆけば、身体は消えている。人間は、そういう「祭り」を体験する生き物である。
身体の孤立性とは、身体のまわりの「空間」を確保すること。生き物は、それによって身体が動くことができる。
身体が動くことのできる「空間」を確保することこそ、密集し過ぎた集団の中に置かれてある人間としての根源的な快楽である。そしてその究極のかたち(快楽=カタルシス)として、「身体が消えてゆく」という体験がなされる。
そうやって人は、死に対する親密さを紡いでいる。

     
     4・生きてあることの「けがれ」を自覚しているか
縄文人もまた、いったん密集し過ぎた集団の鬱陶しさの中に置かれ、そこから旅をしてゆくことによって身体の孤立性を確保しながら「いまここ」に消えてゆくという快楽を体験していった。
氷河期が明けて山間地に移住していった縄文人は、いわばそこで「金縛り」を体験した。そうして、身体の解放をせつに願った。
身体の解放、すなわち身体のまわりの空間を確保し身体の孤立性を確保する究極の行為は、「いまここ」に消えてゆくことである。
身体がスムーズにダイナミックに動くとき、身体は「いまここ」に消えている。
それは、人が集まっている「祭り」において体験される。
「祭り」とは、人と人が出会う場であって、共生している場ではない。共生することの「けがれ」から解放される場なのだ。
すなわち、人間を生かしているのは、共生することではなく、人と出会うことのときめきにあり別れることのかなしみにある、ということだ。
旅をすることは、「別れ」と「出会い」の反復である。縄文時代の男と女は、そういう身体の孤立性の上に成り立った「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」のカタルシスを汲み上げながら縄文文化を育てていった。
彼らは、避けがたい歴史のなりゆきとして、一緒に暮らすこと(=共生)の鬱陶しさ(=けがれ)を体験させられてしまった。
縄文時代は、「けがれ」の意識からはじまっている。
そうして男たちは、旅に出た。それは、「いまここに消えてゆく」という「祭り」だった。そうやって彼らは、身体の孤立性を確保しつつ身体の「けがれ」をそそいでいった。
われわれ現代人は、彼らのような「もう死んでもいい」と「いまここ」に消えてゆくカタルシスを体験しているだろうか。
縄文人がもしも現代人ほどには死を怖がっていなかったとしたら、それは霊魂の永遠や天国や極楽浄土のようなものを信じていたとか、そういう話ではまったくなく、ただもう「いまここ」に消えてゆくカタルシスを体験して生きていたということによる。
生きてあることを「けがれ」として自覚し、それをそそいでゆくタッチを持って生きていたということ。そしてこれこそが日本列島の文化の伝統の基礎になっている。
もののあはれ」も「わび・さび」も「無常」も、ここから生まれてきた。そういう「いまここ」に消えてゆくタッチが、日本文化の伝統のかたちなのだ。
われわれは、そういうタッチを持っているだろうか。そういうタッチを失ってしまったから、死を前にしていろんな悪あがきをしなければならなくなっているのではないだろうか。
いやこれは、日本文化の伝統というより、人間性の根源の問題なのだ。
現代人が、霊魂とか天国とか極楽浄土というものを非科学的なものとして信じていないのだとすれば、原始人だって信じていなかった。縄文時代には、おそらくそんな概念はなかった。
それでも、彼らが現代人ほど死を怖がっていたということは考えられない。
彼らが無知だったからではない。それは、たんなる心がけの問題であり、いまどきの意地汚く生き延びようとばかりしている大人や老人のような人種がいない社会だった、というだけのことだ。
原始時代の旅が、物見遊山の快適なものであったはずがない。彼らにとって旅に出ることは、「いつ死んでもいい」と覚悟することだった。しかしだからこそその旅には、「もう死んでもいい」という心地になってゆく「祭り」のカタルシスの体験があった。
縄文人は、生きてあることの「けがれ」を深く意識していた。だから、旅に出た。そこが、生き延びようとあくせくしている現代人とのいちばん大きな違いかもしれない。
縄文人の生は、死に対する親密さを紡いでゆくいとなみだった。
縄文時代は、人々が飢えていたわけでもないのに、あまり人口が増えなかった。それは、誰もが死に対する親密さを持っている社会だったからかもしれない。
どうせだれもが死んでゆくのである。人が長生きする社会になったからめでたいというわけでもあるまい。
ましてや、延命治療なるものがどこまで必要であるのか。
死に対する親密さを持てないで生きることの悲惨というのもある。
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