「ケアの社会学」を読む・53・進化の契機

   1・生き物はこの地球のじゃまっけな存在なのだ
命のはたらきは死の影を帯びている。死の影を帯びることが命のはたらきが起きる契機になっている。
べつに「神の意志」などということをいうつもりはさらさらないが、原初の生命の発生は、この世界の余剰のものを処分する、という現象だったのだ。
この世界の余剰の塵に「死」を与える、というかたちで生命が発生した。そうやってその塵は生物になり、生物になった瞬間に死んでいった。
まあただの考え方の問題だといえばそういうことなのだが、この世界にとって生物はすべて余剰の存在であり、つねに「死」というかたちで処分されてゆく。
われわれは原初、この地球にとってはじゃまっけな塵だったのであり、「死」という命を与えられて地球から処分され続けてきたのだ。その塵は、命を与えないことには処分できなかった。
この地球が存続するためには、生物はじゃまっけな存在なのだ。だから、「死」という命を与えて処分し続けている。
だって地球というかたまりは、もともとただの無機物なんだもの、生物を住まわせる必要なんか何もない。生物を死なせる必要があるのだ。
というわけでわれわれは、地球にとってのじゃまっけな存在であることを自覚し、潔く死を受け入れようではないですか……というしかない。
「命の尊厳」とかなんとか、やめてくれよと思う。そんなことをいっている人間にかぎって命のはたらきが弱いのであり、現代社会でそんなスローガンが大合唱されていること自体、人類の命のはたらきが衰弱してきている証拠だともいえる。
みんなじゃまっけな存在として生きている。誰もがそのことを思い知って、おたがいいたわりあって生きて死んでいきましょうよ、ということでいいんじゃないの。
もうすぐ死んでゆく老人なんか、じゃまっけな存在以外の何ものでもない。それでも人が介護をせずにいられないのは、じゃまっけな存在であることに対する傷ましさと親しみを感じるからだろう。おたがいすでにじゃまっけな存在として生きているという思いが心の奥のどこかしらで疼いているからだろう。
人間=生物がじゃまっけな存在であるということを肯定し受け入れなければ、介護なんか成り立たない。
どうして「尊厳」でなきゃいけないのか。おまえら、そうやって「尊厳」のランク付けをしているだけじゃないか。くだらない。
そして、少しでも「尊厳」の上位にランクされて「上機嫌」で生きゆきたいってか?
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   2・われわれが共有できるもの
「死の影を帯びている」とは、「どうでもいい」とか「じゃまっけ」とか「無駄」とか「いいかげん」とか「あやまち」とか「不完全」とか「不安定」とか、人間はそんなことを肯定し受け入れる存在であるということだ。そういうところから、文化や文明が発達してきた。
われわれは、本能的無意識的なところでは、自分が生きていてもいい存在だとも生きていたいとも思っていない。
自分はじゃまっけな存在だという思いは、誰の中にもある。生き物は、じゃまっけな存在として原初の地球上で発生したのだ(宇宙の彼方から飛んできたという説もあるらしいが、この際どちらでもいい)。命は死の影を帯びているということは、自分はじゃまっけな存在だと思うほかない心の動きが付きまとっている、ということだ。このことを肯定し受け入れ共有してゆかなければ人間社会など成り立たない。
進化とは、死の影をより深く帯びながら不安定・不完全な存在になってゆくことである。
死にそうな人は、われわれが死の影を帯びた不安定・不完全な存在であることの嘆きを癒してくれる。そうやって人は、介護をせずにいられない気持ちになる。
命が安定し・完全なものであらねばならないのなら、死にそうな人間や障害者などじゃまっけなだけなのだから、さっさと殺してしまえばいい。現代人は、実際にそうやって観念的にじゃまっけなものたちを殺してしまっているのである。
じゃまっけな人間などいない、とおためごかしをいっても、人は病気になったり貧乏になったり老いさらばえたりしたら、自分はじゃまっけな人間だと思ってしまうのである。そうして、「じゃまっけな人間などいない」という、まさにその社会的合意に追いつめられて自殺したり鬱病になったりしてしまうのだ。
病気を苦に自殺するとか、安楽死させてくれとか、けっきょくのところ、そういう社会から「観念的に」殺されていることなのである。
寄ってたかって「命の尊厳」などとしゃらくさいことばかりいっているから、そういうことになってしまうのだ。
みんなじゃまっけな存在なのだ。総理大臣や大統領だって同じさ。
内田樹先生や上野千鶴子氏のように、自分は社会にとって有用な存在だと自分を合理化正当化している人間はこの社会にたくさんいるのだろうが、おまえらだってじゃまっけな存在でしかないのだ。
生き物の歴史は、じゃまっけな存在としてこの地球に出現したところからはじまっている。
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   3・生きることではなく、死ぬことが生命の定義だ
原初の生物は、生まれた瞬間に死んでゆく存在だった。そのとき地球は、じゃまっけな塵を処分するというかたちで、その塵に生命を与えた。生命を得ることはそのまま直ちに死んでゆくことだった。
最初の生命は、ただの無機物が化学変化して生まれたのか、それとも最初から有機物の栄養があってそれをもとにして生命がかたちづくられていったのか……なんとなく後者の方が現実的のようだが、栄養が生命をつくったのか、生命が栄養をつくったのか、そこのところははっきりしているのだろうか。栄養で生命が生まれるのなら、栄養があるかぎり生命は死なない、ということにはならないのだろうか。
一般的には自己複製の能力を持つことが生命の定義になっているらしいが、僕にとってはそんなことはどうでもいい。死ぬことが生命の定義だ。
まあ、どんなかたちで発生したのでもいい。僕は、生命の起源を解き明かしたいのではない。生きてあることはどうしてこんなにもしんどいのかという心の動きの根源のかたちを探りたいのだ。
とにかく、生き物が死ぬということは、この地球上のじゃまっけなものとして発生したにちがいないのだ。それはきっと、秋になって色づいた木の葉が散ってゆくような現象だったのだろう。
生命が誕生したということは、生命が死んでいったということだ。
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   4・死ぬことが進化の契機になっている
40数億年前に発生したといわれている地球上の生命は、「死ぬ」ということを繰り返しながら進化してきた。
この「死ぬ」という機能こそが命の本質であり、この機能とともに進化してきたのだ。
われわれの命は、40数億年たってもまだ、死なないというかたちになっていない。それは、生き物は根源において「生き延びよう」とする衝動=本能を持っていないからだろう。そうでないとつじつまが合わない。
われわれは死ぬ命を生きているのであって、死なない命を生きようとしているのではない。死なない命に「はたらき」など起こらない。
最初は、生まれて一瞬のうちに死んでしまう命だったのであり、それから40数億年たっても、われわれはまだ100年も生きられない命しか持ち合わせていない。
何はともあれわれわれがここまで生きられるようになったのは、生き延びようとする意欲をつないできたたまものであるのではなく、ただもう生きられない状態をもがき苦しんできた「結果」にすぎない。
生き延びようとする意欲の強い人間よりも、生きられない状態でもがき苦しむことのできる人間の方が生命力は強いのだ。「いまここ」のもがき苦しむことそれ自体を受け入れることのできる人間の方が、生き延びて楽になりたいと「未来」を目指す人間より強いのだ。
楽になりたいと思ったら、生きられない。
生き物が動いているのは、死んでしまう命をもがき苦しんでいる状態である。
微生物がいつも動いているのは、死んでしまう状態をもがき苦しんでいるのだ。もちろん彼らに「苦しい」という心などあるはずもないが、ひとまずそれは、そういう事態なのだ。
進化するとは、「楽になる」ことではなく、さらにしんどい状況でももがいていられるようになってゆくことだ。もがく能力が発達していったのだ。そうやってもがきながらペリカンのくちばしは大きくなっていったし、キリンの首は長くなっていった。
生き物は、死んでしまいそうな状況をもがきながら、進化してきた。
「死ぬ」という与件が生き物の進化をもたらしたのであって、「生き延びようとする衝動=本能」ではない。
死んでゆくことが、生き物が地球から与えられた使命なのだ。「死んでゆく」というかたちで命のはたらきが起きている。
生きてあることは、死んでゆく状態である。
ひとまず原初の塵のような生物は、だんだん大きくなっていった。それは、たくさんもがいてたくさん栄養を摂取していったからだろう。べつに、大きくなりたかったわけではない。大きくなれば、よりおおげさにもがかねばならないし、よりおおげさにもがいても耐えられる。
そのようにして生物は、どんどん不安定で不完全な存在になっていった。
まあ生物としては、生まれた瞬間に死んでゆくのが、もっとも安定して完全な命のかたちなのだ。
人間は、長生きするようになって、不安定で不完全な長い老後や終末期を過ごさねばならなくなった。現代社会に必要なのは、安定した生よりも、いかにして不安定な生を生きるかということではないだろうか。
老人だけではなく、たとえ若者や子供であっても、人間の生が、精神的にも身体的にも、いかに不安定で不完全な仕組みになっているかということは、もう少し考えてみてもいいのではないだろうか。生きてあることの醍醐味もそこにこそあるのであって、「死ぬまで上機嫌で生きるから心配いらない」と気取ってみても、はたしてその通りにいくかどうかわからないし、そんな生き方に人間=生き物の自然があるわけでもないだろう。
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