祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」29

起源としての戦争が、「土地争い」とか「奴隷狩り」とかそんな経済的理由から起こってきたと考えているのはこの島国の歴史家だけで、それが純粋な「祝祭」であったということは、今やもう世界的な通説になりつつあるのだとか。
マヤ文明やインカ文明の遺跡からは、そんなような証拠が、次々に発見されているらしい。
またそれは、「個」とか「実存的な不安」とか、いままで現代人特有のものだと考えられていた心の動きが、じつは原始人も抱いていた人間としての先験的な心の動きだった、ということを意味している。
万葉集にも、「ひとり(=個)」を嘆く歌はいくらでもある。
あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む(柿本人麻呂
等々。
なぜそういう心の動きが起こってきたかといえば、人間が、「共同体」という、生きものとしての限度を超えた群れの中に置かれるようになったからだ。
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限度を超えて群れが膨張・密集すれば、まとまりが取れなくなって、細分化の動きが生まれてくる。
二百人集まれば、百人ずつくらいのグループに分かれてくる。なぜなら、猿の延長である人類にとって、百から百五十人くらいが、まとまって行動できる限度だからだ。
猿だって、群れが大きくなれば、そのように分裂してゆく。
五百人集まれば、四つか五つのグループが生まれてくる。猿の場合は、それぞれのグループが自己完結して別々の群れになってゆくが、人間の群れは、そうやって細分化しながらグループどうしが連携してゆくという動きが生まれてくる。
その百人のグループがさらに細分化されて五十人どうしのグループに分かれて連携してゆく。少なければ少ないほど、まとまった行動が取れるし、少なければ少ないほど自己完結できなくて連携してゆこうとする。したがって、その五十人のグループも、さらに細分化される。
モンゴル軍は、十人隊百人対千人隊というように細分化しながら大きなチームワークをつくっていった。
人間の群れは、細分化しながら連携してゆく。この動きが衰弱したとき、ファシズムになる。
細分化して連携してゆく、自足できないレベルまで細分化してしまえば、もう連携してゆくしかない。これが、人間の群れが大きくなってくることができた要因である。
そうして、その細分化の最後の単位が、「家族」である。
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吉本隆明氏は、「家族」という単位が大きくなって「親族」になりそうして「共同体」が生まれてきた、といっているが、こんなものは嘘っぱちで、話は逆なのだ。人間は限度を超えて大きな群れを形成するようになったから、どんどん細分化していってとうとう「家族」という単位を持つようになったのだ。
人が三人集まれば、二対一の関係が生まれてくる。そこまで細分化してしまうほど手に負えない大きな群れを形成するようになったところから、「家族」が生まれてきたのだ。
そうして、二対一の「二」である「家族」から疎外された「一」という単位を自覚したとき、「個」とか「実存的な不安」という意識が、より鮮明に浮かび上がってくることになる。
三角関係から疎外された「ひとり」はもう、誰とも連携できない。三角関係が、人の心を一番追いつめてしまう。そして人間は、この三角関係を持ってしまった。それはまさに、「パンドラの箱」を開けてしまう事態だったに違いない。
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もともと人間は、直立二足歩行をはじめたときに、すでに「個の自覚」とか「実存的な不安」をなんとなく心の底に意識する生きものになり、それを「連携」によって解消してきたのだが、限度を超えて密集した「共同体」のレベルになってくるともう、その不安を解消しきれなくなった。
そうして、解消しきれない不安を一挙に解決しようとして、「戦争」が生まれてきた。
「戦争」によって一挙に解決されるカタルシスを体験するようになっていった。
聖書では、父は「家族」から疎外される存在として語られている。いわゆる「父殺し」から人間の歴史ははじまっている、と。
原初、「父」は、「家族」から疎外される存在であった。その「父」によって「個の自覚」や「実存的な不安」が見出され、「戦争」が生み出されていった。
なぜ父が疎外され存在であったかといえば、母子関係の中に割り込んでゆく存在だからだ。
人類の歴史は、はじめに母子関係という単位があっただけだ。そこに「父」という存在を挿入して「一夫一婦制」をはじめたところから「戦争」が起きてきた。
この制度が生まれてきたのは、西洋では氷河期が明けた1万年前くらいからのことで、日本列島でその制度が本格化したのは、大和朝廷の支配が整備された千数百年前のからのことである。
日本列島の戦争の歴史は、浅い。戦争によって大和朝廷がうちたてられたのではなく、大和朝廷がうちたてられたことによって戦争が本格化してきたのだ。
あるいは、「一夫一婦制」という家族制度が定着し、それにともなう男たちの疎外感から「個の自覚」や「実存的な不安」が肥大化してきたことによって、戦争が本格化してきたのだ。
それは、人間存在の、群れを細分化して連携してゆこうとする習性から生まれてきた。
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人間は、「自己を確立する」とか「自己完結する」などということを目指す存在ではなく、自己完結しないで「連携」してゆこうとする存在である。
起源としての戦争だって、敵も味方も、自己完結できない「実存的な不安=嘆き」を共有しながら戦っていたのであり、それはそれでひとつの「連携」であり「祝祭」であったのだ。
人間の戦争への衝動には、この「実存的な不安」を一挙に解消したいという願いが潜んでいる。現代人だって、誰もがそういう衝動を抱えている。
近ごろの「タイムスリップもの」の物語は、戦争のさなかにスリップしてしまう、というパターンのものばかりではないか。それでは芸がなさ過ぎると思っても、そんなパターンばかりではないか。
アメリカ人や北朝鮮人が戦争をしたがるのも、そういう「実存的な不安」がどうしようもなく募ってしまう状況を抱えているからだろう。
アメリカ人は、そういう不安をやりくりするのがどうしようもなくへたくそな民族だし、北朝鮮はもう、やりくりしようのないところまで追いつめられてしまっている。
アメリカ人は、そういう「実存的な不安」を見つめないでもすむシステマティックな暮らしをしてシステマティックな心の動きになっているが、それでも、人の心には実存的な不安がどこからか忍び寄ってくる。それはもう、アメリカ人が手に入れたシステマティックな「幸せ」だけでは解決できないのだ。
というか、彼らは、暮らしも心の動きもシステマティックにしてしまったから、「実存的な不安」をやりくりできない人種になってしまった。そうして、鵜の目鷹の目で戦争の種を探している。
彼らは、「実存的な不安」を心の奥に閉じ込めてしまうことばかりに勤勉で、そこからカタルシスを汲み上げてゆくすべを知らない。
まあ、現代のこの国にも、そういう病理というか、偏頗な心の動きは蔓延しつつあるのかもしれないが。