祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」28

「起源神話」をどう解釈すればいいのだろうか。
現在残っているものは、おおむねあとの時代になって、共同体の正当性を確保しようとする権力者の意図に沿って紡ぎ出されたものだろう。
古事記上巻の「天地(あめつち)のはじめ」の記述だって、世の歴史家は、ビッグ・バンの現象と符合しているとか、なんだか人間の根源性のあらわれであるかのように語っているが、じつは、大和朝廷の支配が確立したあとから付け加えられただけの話かもしれない。
それは、古事記が編纂されたときよりずっと以前の、弥生時代古墳時代に語り伝えられていた起源としての神話からはずいぶん変質してしまっているのかもしれない。
そのとき人々の関心は、共同体の正当性(=自己完結性)を止揚してゆくことにあったのではなく、むしろ、共同体としても個人としても自己完結できない「嘆き」を共有し連携してゆくことにあった。
そこにおいて語られていた神話こそ、起源としての神話なのだ。
古事記には、そうした起源の痕跡は残っているのだろうが、まるごと信じるわけにはゆかない。
ましてや「神武東征譚」が史実だなんて、僕は認めない。
とりあえず自分たちのルーツを「超越的」な場所に置く必要があったというだけであり、それが神話を語るものたちの本能だった。
神話が超越的な物語であるということは、史実を伝えることが目的だったのではなく、物語を作り上げるカタルシスを共有してゆくためのものだった、ということを意味する。
胸がわくわくするようなおもしろい話をでっち上げることにこそ、神話を語る醍醐味があったのだ。
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ただ、「記紀」において、最初に神がいて天地のはじめをつくったのではなく、天地のはじめから神があらわれた、といっているところは日本列島的な発想で、起源としての神話の痕跡になっているのかもしれない。
神は、はじめから存在したのではなく、新しく出現したのだ、という発想。
一般的には、西洋のような天地をつくった絶対的な神のことを「超越神」というらしい。とすれば、日本列島の「出現する」神はそうとはいわないことになるのだろうが、これは、「超越」ということに対するイメージが違うだけで、どこの国の神であろうと、神は、超越的な存在に決まっている。
日本列島で「森の神」というとき、森が神だといっているのではない。森の中に神がいる、といっているだけだ。「山の神」「海の神」といっても同じだ。
日本列島の神は、隠れていて見えない。そして、ときどき鹿や鳥や乞食の姿を借りてあらわれる。
天地のはじめにあらわれた神も、そのあとすぐに姿を隠して見えなくなっている。
日本列島では、隠れていることが「超越性」の証しである。
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ともあれ、人間は「起源」を語りたがる生きものだ。
もののはじめ、つまり「新しいもの」の出現。日本列島の住民は、ことに新しいもの好きだ。
そういう心の動きで、「天地のはじめ」を語り合ったのかもしれない。自分たちのルーツとしてではなく、究極の「新しいもの」として。
日本列島における「新しいもの」は、「出会いのときめき」をもたらすものとしてある。
古事記では人間の祖先を神として語っている、というような言い方がよくなされるが、そんなことは何もいっていない、それはあくまで、「天皇という神」の祖先の物語なのだ。
自分たち人間の祖先であるのなら、神としての超越性はなくなってしまう。彼らは、自分たちのルーツに関心があったのではなく、神のルーツに関心があっただけだ。
古事記を読むとき、そのころ天皇はすでに神であったということを、銘記しておく必要がある。
神の系譜は、隠されてある。その「隠されてあるもの」との出会いのときめきとして、神話を語り合った。
古事記の神は、荒唐無稽である、その荒唐無稽の中に、出会いのときめきがある。
日本列島においては、「超越性」とは「隠されてあるもの」のことであり、その「隠されてあるものとの出会いのときめきを「新しいもの」という。「新しいもの」の本質は、「超越性」にある。
日本列島の住民がなぜそうしたものにことさら心惹かれるのかといえば、それだけ「この世界に閉じ込められてある」という意識が強いからだろう。四方を海に囲まれた島国で暮らしていれば、当然そうなる。だから、この世界の外の「超越性」に対して敏感で、「新しいもの」の出現にすぐときめいてしまう。
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やまとことばで、新しいことを「にひ」という。
「に」は、「煮(に)る」「似(に)る」の「に」。「到達」「接近」の語義。食える状態に接近し到達してゆくから「煮る」という。
「ひ」は「秘(ひ)する」の「ひ」、隠すこと、隠されてあること。
「にひ」とは、隠されてあるものが出現すること。あるいは、隠されてあるものと出会うこと。
英語で、新しいことを「にゅう」という。この国でも、「にゅうっと現れる」などという言い方をする。西洋でも日本列島でも、新しいものが出現することへの感慨は、そう大差ないらしい。
ただ、そうした事態に対する思い入れが、日本列島のほうがはるかに深い。
西洋人は、新しいものをつくりだすことの達成感が大事で、日本列島の住民は、新しいものとの出会いのときめきを貴重なものだと考える。前者は、新しいものがすでに手の内にあるが、後者にとっての新しいものは、「超越性」として隠されてある。そして、そういう違いが、神話にも現れている。
日本列島においては、神との出会いは、新しいものの出現を体験することだ。
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人はなぜ、新しいものにときめくのか。
新しいことはいいことだ、というスローガンによってではない。
根源的には、そんな「好奇心」などはたらいていない。
新しい朝のときめきは、新しいことはいいことだ、というスローガンによって起きてくるのか。そうではない。
それは、暗い夜が終わった、という感慨からもたらされる。
夏が終わって、新しい秋がやってくる。
赤ん坊が生まれることをめでたいと尊ぶのは、人が死んでゆくことの悲しみ(災厄)を体験しているからだ。
太陽は必ず沈んでしまうし、夏も必ず終わってしまうし、青春も必ず終わってしまうし、人間は必ず死んでしまう。
生きていれば、つねに終わりの喪失感を体験し続けなければならない。
だからわれわれは、新しいものとの出会いにときめく。
「好奇心」などというもので新しいものとの出会いがあらかじめ想定されているのなら、出会っても大して感激しない。
新しいものとの「出会いのときめき」は、「終わる」ということに対する感慨の上に成り立っているのであって、「好奇心」によって獲得される予定調和的な物語ではない。
民主党が新しいものとしてもてはやされたのは、人々が深く「自民党の終わり」を実感したからだ。そのことなしに民主党ブームなんか起こりえなかった。
生き物の意識の根源的なシステム(本能)に、未来に対する「好奇心」など組み込まれていない。そんなものは、制度的な幻想に過ぎない。
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「好奇心」に訴える戦略など、しょせん二流の資本主義だ。
新しいものは、超越的な世界からの旅人(=神話)としてやってくる。そうやって不意を突かれながらわれわれはときめいているのであって、好奇心の先で獲得しているのではない。たとえ資本主義の世の中でも、新しいものは、いつだって不意打ちのようにしてわれわれの前に現れている。
新しいものは、神の超越性として現れる。
たとえば、アニメ界最大のビジネスメーカーである宮崎駿の作品は、過去あるいは超越的な世界からの旅人として提出されている。「たまごっち」は、まさに不意打ちだった。
好奇心を刺激される新しいものは、新しいものではない。好奇心を刺激されるという体験は、げんみつには、新しいものとの出会いにときめいているという体験とはいえない。
新しいものは、人々が待ち焦がれているものとして現れるのではない。大衆が何を求めているかというようなことばかり考えている広告マンには、新しいものを提出する能力はない。
新しいものは、超越的な神でなければならない。
隠されてあることの超越性。その超越性は、好奇心を向けることの不可能性の上に成り立っている。不可能だから、超越性なのだ。
不意打ちのようにひんやりした秋風が頬を撫でていったときのときめき……日本列島における神との出会いは、こんなところにもある。そして、それが、われわれが体験している新しいものとの出会いのかたちなのだ。
日本列島における新しいものとの出会いは、神との出会いでもある。