祝福論(やまとことばの語源)・もう一度「あをによし」

僕は、聖人君子ではないから、ときどき自分をコントロールできなくなる。
いや、ときどきではない、全体的に見て、まったくコントロールできていない。
生きてゆくことなんかただ無邪気に人にときめいていればいいだけさ、と思うのだけれど、そんな自分になれるときなどめったにない。いつも中途半端で、ときには、われながらみっともないものだと後でつくづく思い知らされる態度をとってしまう。
自分はこんな人間だ、というようなイメージなどない。自分のことなんか、よくわからない。
ただ、えらそうな顔をして人を責めるなれなれしさは大嫌いですけどね。しかしそれだって、自分はそういう態度はとらない、という自信もない。
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「心」とは、身体の内側に隠されてあるもの。それがどんな形でどんな色をしているのか、自分自身だってよくわからない。
わからないから、気になるのだ。わからないから、表現しようとするのだ。そして、表現した後に、ああそうだったのか、と気づかされる。
わかっているつもりで見せびらかしたって、そんなのはただのつくりものだ。うそっぽいし、そういうことを「表現」とはいわない。
あの人はやさしいとかひねくれているとか怒りっぽいとか、そういういわば性格のことは、それもまた顔や体のつくりと同じ外見のひとつに過ぎないのであり、そういうことではなく、このよろこびやかなしみはいったい自分のどこからしみ出してくるのだろうと考えたとき、われわれはもう、わからなさで途方に暮れてしまう。
そのような、自分のことなんかわからない、という位相に身を浸してゆくことが、「自分=内面」を表現することなのだ。
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日本列島の住民は、縄文時代から「心=内面」を表現しようとする衝動に目覚めていた。
その代わり、「外面」のかたちをリアルに写そうとする衝動は希薄だった。
だから、縄文時代における火焔土器土偶などの内面表現の傑作を生み出しても、ギリシア彫刻や秦の兵馬俑のような写実的な作品は残さなかった。
ギリシア彫刻や兵馬俑は優しさとか怒りっぽさなどの性格くらいは表現しているが、火焔土器土偶などが表現しているあの何やらわけのわからない心の動きまでは表現し切れていない。それを、「魂」といってしまうと、語るに落ちてしまうのだが、まあそんなようなことだ。
日本列島では、なぜ「写実」が発達しなかったのか。
それは、写実的な表現をしたくなかったからだ。できなかった、のではない。
それほどに、この世界のリアルな表象というか、すなわち「物性」を厭うていたからだ。
古代人は、神はそのリアルな表象(物性)の内側に「空間(空白)」としてやどっている、と考えていた。
古代人にとって、みずからのわけのわからない内面(=心)は、「神」のことでもあった。
縄文時代の火焔式土器や土偶は、彼らの内面の表現であると同時に、「神」の表現でもあった。
彼らは、この世界のリアルな表象としての「見えているもの」ではなく、内面という「見えないもの」を表現しようとした。見えないものに対する「せつない」想いがあった。
「見えない」という「不可能性・不可知性」、そのことに対する「せつない」想いを表現していった。
埴輪の馬のあの単純な形にしても、見方によっては「様式美」としての内面の表現だ。それは、死者があの世で乗る馬である。したがって、この世の馬と同じであってはならない。同じであらねばならないと同時に、同じであってはならない。そういう「せつない形」なのだ。
ギリシャ神話は、それはそれで話の筋が通っている。
しかし古事記は、あきれるくらい荒唐無稽だ。そんなところにも、古代の日本列島の住民による、写実から逸脱してゆこうとする衝動がうかがえる。
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目の前には見えない隠されてあるものの「不可知性」に身を浸してゆく想い、それを「せつない」という。
万葉集で、そうしたせつなさをもっとも鮮やかにあらわしているのが、「あをによし」というまくらことばだ。
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あをによし 奈良の都は 咲く花の 匂ふがごとく いま盛りなり
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小野老(おゆ)という役人が、筑紫の国大宰府にあって、故郷の奈良の都を懐かしんで詠じた歌。
べつにどうということもない歌だが、ここまで有名になっているのは、「あをによし」というまくらことばの並々ならぬイメージ喚起力のゆえだろう。
それは、ただたんに「奈良」ということばを飾っているだけではない。
「あをによし」という言葉自体に自立した感慨がそなわっているのだ。
「あを」は文字通り「青」で、奈良では「青丹(あをに)」という青の顔料となる土がたくさんとれたからだ、という説があるが、たんなるこじ付けにすぎない。そういう説明的な「意味」をどんなに詮索したって無駄なことだ。
おそらくはじめに「あをによし」という独立したことばがあり、そこから「奈良」ということばにくっ付いていったのだろう。
それは、ただ単純に「奈良の都」を象徴しているのではない、「奈良の都を懐かしむ」という「感慨」を象徴していることばなのだ。
少なくともこの場合は、望郷の念のせつなさやはるかな感じを、鮮やかに喚起している。そのせつなさやはるかな感じの上に、奈良の都の華やかさが鮮やかに浮かび上がってきている。
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たとえば古代人が「はし」というとき、二つのものを接続するときの危うさや心もとなさが表出されている。「橋」といっても「箸」といっても「端」といっても、それ自体の意味と同時に、そうした危うい感慨をイメージしていた。
そうした感慨をイメージする体験を大事にしていたから、「橋」と「箸」と「端」を同じ音声のままにして表出していたのだ。
むしろ、そうした感慨をイメージすることのほうが勝っていたのかもしれない。
まくらことばも同じで、そのことばが説明する意味がどうのという以前に、その音声が表出している感慨があったわけで、古代人はそれを、意味以上にすばやくたしかにとらえていたらしい。
これは、文字をまだ持たずに、話し言葉の音声の交換だけで人と人の関係が成り立っていた時代の感性だ。
日本列島の住民は、縄文時代から集団お見合いである「歌垣」やツマドイの歌のやり取りのようなことをしており、そこではおそらく、ことばの意味よりも、音声にこめられている感慨のほうが重視されていたはずで、まくらことばは、そういう習俗から生まれてきたのだ。
しかし、文字の普及とともにことばにおける意味作用の機能が重視されてくれば、その命もやがて衰弱してゆくほかなかった。
ただ、「あをによし」というまくらことばだけは、現代人の脳にも直接響いてくるような、圧倒的に鮮やかな感慨をまとっているらしい。
問題は、そこにある。
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語源としての「あを」は、色彩の「青」のことではおそらくなかった。
はじめに、「あを」という音声を表出する「感慨=カタルシス」があり、そこから連想されるかたちで「青」という意味が生まれてきた。
「あ」は、「ああ」と気づく感慨。
「を」は「うおお」と驚きときめく感慨。
たとえば、どこまでも澄み渡る青い空を見上げたときそのはるかな遠さや広さに対して、「ああ」とも「うおお」とも感嘆してゆく。
はるかに遠いものを望むとき、「あを」という音声がこぼれ出る。
「よし」は詠嘆の助詞で、「良し」という意味を含んで「奈良」をほめている、などといわれているが、それだけなら、「青はいいなあ」という意味になるのだろうが、たぶんそういうことではない。
「よし」の「よ」は「寄る」の「よ」、「し」は「静寂」「孤独」「終結」の語義。
「よし」には「旅路の果て」という意味がある。
つまり、旅路の果てからはるかな故郷に思いをはせる感慨を「あをによし」というのだ。
「あをによし」といえば、故郷の青い山並みや青い空がまぶたの裏に一挙に浮かんでくるとか、そういう機能もあったかもしれない。
都から地方に流された役人たちの常套句だったのだろうか。
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「あをによし」がかかることばは「奈良」だけでなく、「国内(くぬち)」ということばもあった。とすればそれは、必ずしも「奈良の都」だけでなく、「故郷」一般を思うことばであり、東国から流されてきた防人や舎人たちも、故郷をしのんで「あをによし」といっていたのかもしれない。もしかしたら、こちらのほうが先かもしれない。なんといっても旅路の果ての感慨は。東国から九州に流されてきた防人のほうがよく知っていいる。
上の歌があまりに有名になりすぎて、「奈良」にかかるのが主流であるように思われているだけかもしれない。
そして、このまくらことばの感慨が、なぜわれわれ現代人の脳にもすんなり入り込んでくるかというと、現代からはるか昔の奈良時代に思いをはせる、という作用がはたらいているからではないだろうか。
「あをによし」という語感だけで、われわれ気持ちは一挙に奈良の都の空に連れて行かれる。それだけでもう、大仏開眼の華やかな行事のことなども浮かんでくる。
「あをによし」とは、はるかに遠いものに心が引き寄せられてゆく感慨を表しているまくらばことば、といえるのではないだろうか。そういう語感だけは、いまなおやまとことばを使っているわれわれ現代人にもとらえられるし、そういう感慨のカタルシスは、いまなお伝統的な日常感覚としてわれわれの中にも残っているのかもしれない。
つまりそれは、縄文人火焔土器土偶といったわけの分からない形のものをつくっていった感性でもある。