祝福論(やまとことばの起源)・「辻が花」13

ウィトゲンシュタインは、「この世界が存在することそれ自体が不思議であり驚くべきことなのである」といった。
世界が存在することを、そうかんたんに決め付けてしまっていいのだろうか。
世界が存在することは、われわれの心の動きの前提になっているが、それでも、果たしてこの世界は存在するのだろうか、という思いはどこかしらに疼いている。
そうかんたんに「世界は存在する」と決め付けてもらっては困るのだ。このへんが、ヨーロッパ人の考えることのいやらしいところだ。彼らは、キリスト教とかユダヤ教というものを引きずっている。つまりそれは「神が存在することそれ自体が不思議であり驚くべきことなのである」といっているのと同じなのだ。
世界を「神」とすることによって、はじめて「世界が存在する」という信憑が生まれる。
しかしほんとうは、「世界は存在する」という心の動きがある、というだけのことで、世界が存在するかどうかということは、依然としてわからない。
われわれ日本列島の住民にとっては、「世界が存在すること」は、不思議でもなんでもない。われわれの心の動きはそういう前提を持っている、というだけのことだ。「世界が存在すること」はわれわれの「嘆き」であって、「驚き」ではない。存在するかどうかなんてわからないのに、なぜ「存在する」という前提を持ってしまわねばならないのか。そういう「嘆き」が、われわれの心のどこかしらで疼いている。
人間は、限度を超えて密集した群れの中で暮らしている。自分を取り巻いているそうした他者の身体にいちいち「存在=物性」を感じていたら、息苦しくてたまらない。
われわれは、他者の身体を「存在=物性」ではないたんなる「画像」として眺める視線を持つことによって、この密集状態のうっとうしさを克服してゆく。
人間にとって世界は、「存在」ではないのだ。「存在感=物性」を解体する視線を持ったから、大きく密集した集団の中で暮らせるようになったのだ。その視線を持たなければ、われわれは発狂してしまう。ヒステリーを起こしてしまう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
われわれの「驚き」や「ときめき」は、「世界が存在しない」ということに向けられてある。
「世界が存在しない」と思っても、「世界が存在しない」ということそれ自体に驚きときめいてしまう心の動きがある。
原始人は、「世界が存在しない」ということに驚きときめいて、「神」を見出していった。
たとえば、空を飛んでいる鳥の体の中身は、「非存在の空間」に思える。それでも鳥は、空を飛んでいる。飛んでいることを可能にさせているのは、鳥の中の筋肉や骨か。しかしそんなものは見えない。見えないものは、「ない」のだ。自分の身体でさえ、ふだんは「非存在の空間」として扱って暮らしている。腹が減ったとか暑いとか寒いとか痛いとか、そういう危機的状況において、はじめて身体の「存在」を感じているだけだ。鳥だって、身体の危機的状況のときは飛ぶこともしないだろう。やつらは、身体を「非存在の空間」として扱いながら、空を飛んでいる。いったい何が、空を飛ぶということをさせているのだろう。
人間は、この世界を「非存在の空間」として見る視線を持っている。そこから「かみ」が見出されていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・
ようするに原始人は、「世界が存在する」などということに興味はなかったのだ。そういう認識が「嘆き」になり、そこからさらに「非存在の空間」に目を向けていったところで、「かみ」と出会った。
少なくとも日本列島の原初の「かみ」は、そういうかたちでイメージされていた。
いや、二万年前の氷河期におけるヨーロッパの住民が「アルタミラの洞窟」に動物などの壁画を描いたことにしても、三次元の存在であるそれらの対象を、二次元的なたんなる「画像」として見る視線を獲得したからだろう。それは、「存在」としての塊ではなく、「非存在の空間」としてのたんなる「画像」である、という視線を獲得したからだ。彼らは、そこで、「かみ」に気づいたのだ。
人類はそこで、存在の物性を解体する視線を獲得した。それによって絵を描く能力が生まれ、「かみ」に気づいていった。
「世界が存在する」ということ、すなわち、腹が減ったとか暑い寒いとか痛いと感じながらみずからの身体が物質としての肉の塊であると思い知らされることの「嘆き」に浸されたとき、人は、健康なときのみずからの身体が「非存在の空間」として現前していることに気づいた。
身体が存在することの「嘆き」を持ったとき、そこから「かみ」に気づいていった。その「嘆き」を人類史上初めて本格的に抱いたのは、50万年前に氷河期の北ヨーロッパに移住していったネアンデルタールだった。それはつまり、この生が身体を「非存在の空間」として扱うことによって成り立っていること、そしてこの世界もまた「非存在の空間」であると気づいてゆくことでもあった。
彼らは、そういう世界観・身体観を持つことによって、あの苛酷な環境の中を生き延びていったのだ。
この世界が「存在=物質」であると認識されていたら、あんなひどいところはさっさと逃げ出すさ。
人類が地球の隅々まで拡散していったのは、この身体もこの世界も「非存在の空間」であるという認識を獲得することができたからだ。そして、とにもかくにもそこから「かみ」に気づいていったからだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
人類は、すすんで住みにくい土地に住み着いていった。それは、この世界の「物性」に対する嘆きを深くする暮らしだったわけで、その嘆きから逃れるようにしてこの世界の「非存在の空間」に気づいていった。
この世界の物性が解体されて「非存在の空間」が現れてくるのを体験することは、ひとつの浄化作用(カタルシス)であり快楽だった。
「嘆き」があるからこそ、その「嘆き」が洗われるカタルシスを体験できる。
彼らは、そのカタルシスによって、住みにくい土地に住み着いていった。
住みにくい土地に住み着けば、いっそう深いカタルシスがもたらされた。
寒い土地に暮らせば、寒さに震える身体の物性に対する「嘆き」はいやがうえにも深くなる。しかしそこで、身体の物性を忘れてしまっている状態を体験すれば、そのカタルシスもいっそう深いものになる。たとえば、おいしい肉をたらふく食うこと、火のまわりに集まってみんなで語り合うこと、抱きしめあってセックスすること、そんな体験は、身体の物性を忘れさせてくれる。
彼らはそこで、新しい「空間」が生成していることに気づいた。
人間にとってのカタルシスは、この世界の物性を忘れ、新しい「空間」が出現し生成していることに気づくことにある。
「かみ」は、そのカタルシスとともにあらわれた。
他者と語り合う場で新しい「空間」が出現し生成していることに気づくカタルシスは、住みにくい土地に住み着いたものや生きにくい生を生きているものが、もっとも深く体験している。
身体を「非存在の空間」として扱うこと、このカタルシスとともに人類の直立二足歩行がはじまり、歴史が流れてきた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間は、困難な状況にみずからを投げ入れようとする。投げ入れて、そこからカタルシスを汲み上げてゆく。
限度を超えて密集した群れの中に身を置く。
より住みにくい土地に住み着いてゆくことをいとわない。
この世界の「今ここ」を受け入れることができる。それは、この世界の「存在=物性」を解体する視線を持っているからだ。
生きることはゆめまぼろしのようなものだ、というのなら、まさしくそうだ。生きることのカタルシスは、そこにある。この世界の「空間」が生成していることに気づいてゆくことにある。
原初の人類は、集団の「物性」から逃れるようにして、「空間」が生成していることに気づいていった。このことが彼らの生を支え、より大きな集団を形成することを可能にしていった。
世界が「存在」することに驚いたのではない、この世界が「非存在の空間」であること、その「非存在の空間」が生成していることに驚きときめいたのであり、たぶんそれが、人間の根源的なありようなのだ。
鳥が空を飛ぶことは、鳥の「存在=物性」を証明しているのではない。「空を飛ぶ」という「現象」が生成しているだけだ。その「現象=こと」を「空間の生成」としてとらえる視線を、われわれ現代人は失ってしまっている。
「こと」が起きているだけじゃないの。鳥を眺めて鳥の「存在=物性」に驚くなんて、倒錯的だ。心が病んでいる証拠じゃないのか。現代文明は、物性に対する病的な執着の上に成り立っている。
「存在」に驚く、なんて、制度的な視線だと思う。
原初の人々は、世界の「存在」に驚いたのではない。世界は「現象=こと」として現前している、ということに驚きときめいたのだ。
そのとき見えている鳥は、たんなる「画像」なのだ。
それは「空間の生成」であり、その現象を起こす「力」を、彼らは「かみ」と呼んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「この世界が存在することそれ自体が不思議であり驚くべきことなのである」とか、そういうことではないのだと思う。まあ、そういうコンセプトで共同体がつくられ文明が発達してきたのだろうが、それによって失われたものもある。。何より死を怖がるようになったし、原初の人々が「かみ」に気づいていった視線もすでに失われている。
「世界は存在する」という意識と「世界は現象として現前している」という意識、われわれは、あるときからこの二つの意識に引き裂かれてしまった。
原初の人類は、鳥が神だと思ったのではない。すなわち「存在」に驚いたのではない。
鳥が空を飛ぶことに、神の力のはたらきを見出し、その「現象=こと」に驚きときめいたのだ。
「世界が存在すること」が「不思議」であるのは、それはついにわからないことであるからだ。そしてその「不思議」に驚けば、われわれが救われるわけでも、生きてあることにときめくことができるわけでもないし、原初の人々が「かみ」に気づいていったことを追体験できるわけでもない。
「世界が存在することは不思議である」だなんて、世界が存在することを何も疑っていないじゃないか。存在すると決めてかかっているじゃないか。
それは、「わからない」のだから驚きようもないはずだが、存在すると決めてかかっているから驚くのだ。
われわれは、世界が存在すると決めてかかってしまう心の動きを持っている。しかし決めてかかっているだけだから、そうした世界が解体されて「空間の生成」が出現する狂おしさをカタルシスとして体験してゆくこともできる。
たぶん、女のオルガスムスは、そういう体験としてもたらされているのだろうと思う。
男は、そこまで劇的には体験できない。しかし、日常的に身体の「物性」にわずらわされることも少ない。つまり、小出しに、日常的に、身体の物性から解放されて世界を体験できている。
「世界が存在することそれ自体が不思議である」だなんて、何いってるんだろうと思う。
世界やこの身体を「非存在の空間」として体験してしまうことが、「不思議」であり「驚き」なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
原初の人類は、「世界が存在する」という想念が解体される体験として「かみ」に気づいていった。
「世界は<現象>として現前している」と気づいてゆくこと、それは、「非存在の空間が生成している」と気づいてゆくことでもある。
「生成」しているのだから、この「空間」はとろりとしている。何もない「空間」なのに、とろりとしている。そのなやましさと狂おしさ、生きてあることのそんな気分から、「かみ」に気づいていった。
あるとき劇的に知らされたのではない。「天啓」などというものがあったのではない。集団催眠のような事件があったのでもない。
彼らの暮らしの中で、昼と夜が交代・反復してゆくこと、季節が移り変わってゆくこと、そしてつぼみが裂けて花という空間があらわれ出ること、また、人が生まれて死んでゆくことは何もないところからあらわれて消えてゆくことだという思い、それらはすべて「空間の生成」であり、そういう日々の思いの積み重ねから、なんとなく人々のあいだでそんなことが言い交わされるようになっていったのだ。
ともあれ、日本列島における花に対する愛着は、「空間の生成」という「かみ」に気づく体験と深く結びついていた。おそらくそのようにして日本列島の美意識の基底となって長く引き継がれてきたのだろう。