祝福論(やまとことばの起源)・「すてき」

考えることが、かなりややこしいところに迷い込んでしまっているみたいです。「神の起源」にこだわるからいけないのでしょう。でも、日本列島の住民の世界観とか、美意識とか、生命観とか、そんなものを考えようとすると、けっきょくこの問題に突き当たってしまう。
正直いって、ちょっとしんどいです。
気晴らしに、軽いことばのことを考えてみます。
いや、場合によっては重要なキーワードになるのかもしれないのだけれど。
「すてき」ということばです。
世界を祝福することばです。
「素敵」と書く。
なぜ「敵」という字を当てるかというと、色町の遊女は客のことを「敵(てき)」といっていて、そこから「すてき」ということばが生まれてきたのだとか。これは、まゆつばの解釈だ。
江戸時代から、上流階級の気取った女性たちも、好んで「すてき」といっていたのだ。
そう古いことばではない。
江戸時代には、「むやみに」というような意味もあったらしい。
「素敵」と書くのだから、「す・てき」という構造になっているのか。
ほとんどの研究者は、漢字に惑わされてそんな解釈・解説をしている。誰もが、といってもいいかもしれない。
しかし語源的には、「かなしき」とか「あやしき」とか「よろしき」とか「赤き」とか「かそけき」というような「き」がつく形容詞のひとつだったのかもしれない。
だったら「すて・き」になる。
「すて」は「捨て」だろうか。
古くは、「捨つ」といった。
「す」は、「擦(す)る」「すべる」の「す」、「スムーズ」の「す」。
「つ」は「くっつく」の「つ」、すなわち「置く」こと
「捨つ」とは、自分のもとにあるものを自分の外に移動させて置くこと。「移動する」とは、「擦る」ことだろう。すべるようにスムーズに移動させること。
「捨て」は、「捨つ」の体言。「捨て身」とか「捨て鉢」という。
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では、「すて」ということばは、最初から「捨つ」の体言としてあっただけかといえば、たぶんそうではない。「橋」(はし)」と「箸(はし)」が同じであって違うように、「捨てる」というニュアンスではない「すて」ということばがあったのだ。やまとことばは、そういう構造になっている。
「橋」と「箸」も、語源においては、「二つのものをつなげる」という同じニュアンス(意味)から来ている。そういうちょっと危なっかしい心の動きから「はし」という音声がこぼれ出る。だから「端(はし)」ともいう。
「捨(す)つ」の語源は、「擦る」ようにスムーズに移動することにある。「捨てる」という意味は、あとから生まれてきたのであり、語源においては、そのような心の動きがあっただけなのだ。
語源としての「すつ」とは、「心変わりすること」だった。そこから「捨てる」という意味が派生してきた。
では、「すて」の語源は、どのような心の動きにあるのか。
「て」は、「照る」の「て」。光がそこに移動して輝いていること。「海が照る」といえば、太陽の光が海に移動して輝いていること。光の移動を「照る」という。「手(て)」とは、ものを移動させる機能を持った体の器官のこと。
「て」とは「移動」の語義。
「すつ」が、移動させて置くことだとすれば、「すて」は、置かない。移動しっぱなし。ひたすら「移動する」ことが強調されたことばだといえる。
「すて」とは、対象に心が移動すること、すなわち「ときめく」こと。
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おそらく「すて」ということばは、「捨てる」という意味とは別の独立したことばとして存在していたのだ。
たとえば、魅力的(=すて)であることよ、という意味で「すてなり」なんていっていたのかもしれない。
京都や大阪の人は、あまり「すてき」とはいわない。「すて」は、東国のことばだったのかもしれない。関西では、「素晴らし」という。「すてき」の「て」が「照る」ということなら、「素晴らし」の「晴れ」も同じようなニュアンスだろう。
ともあれ東国の人々は、「すて」ということばに愛らしい語感を抱くことのできる遺伝子を持っている。
以前、「すて」という名のおばあさんに会ったことがある。
すごい名前だなあ、と思った。
しかしよく考えれば、「すてき」の「すて」なのだから、何もいぶかることはない。
そのとき僕は、「捨てる」ということばを真っ先に連想してしまった自分の品性の卑しさを恥じた。そしてそれは、僕が関西の出身だということもあるのかもしれない。
「すて」という名のおばあさんがいるということは、「すてき」は、「す・てき」ではなく「すて・き」だということの可能性を意味している。
「すて」ということばは、もともと美しい語感のことばだったのだ。
「すてき」というときの「すて」は、心が対象に移ることをいう。「擦る」ようにスムーズに移ってしまうこと。
「き」は、「気=心」。
「すてき」とは、心がときめくこと、「擦る」+「照る」+「気=実感すること」、すなわち対象が輝いて見えて心ときめくこと。
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このことばは、江戸時代の一時期に大流行したらしい。大流行したのは、「すて」ということばに「き=気」を加えて、「すて」ということばほんらいの姿を強調し、よりいっそう鮮やかに浮かび上がらせたからだろう。
つまり、「すて」ということばの身体を「き」という衣装で飾ったのだ。
したがってそれは、「むやみに」という意味でもかまわない。「見さかいもなく」ということでもかまわない。とにもかくにも、移動しっぱなしの心の動きをいうのだ。
遊女が客のことを「敵(てき)」といったのは、「すてき」とは関係ない。遊女にとって「大切なお客」はほんの少しで、あとは「あのスケベ野郎・ケチ野郎」という「敵(てき)」ばかりだ。
彼女らの「てき=客」は「愛の対象」だったから「す・てき」ということばが生まれてきたのだ、と解説している研究者もいるが、そうじゃないのですよ。遊女の暮らしが、お客に対する「愛」だけで成り立っているような、そんなお気楽なものであるはずがないじゃないですか。お気楽なのは、あなたたちの脳みそだ。
「てき」の「て」は「移動」、「き」は「完結」「世界」の語義。遊女にとっての客は、どこかからやって来てまたどこかに去ってゆく、それだけで関係が完結している相手だったから「てき」といったまでだ。「テキ屋」の「てき」も、祭りのときだけやってきてすぐにいなくなってしまう人たちだったからだ。「てき」とは「移動してきてすぐに去ってゆく人」のこと。戦のときの「敵」だって、まあそんなような対象だろう。「すてき」の「てき」ではない。
ここまで書いてくると、「すてき」は「す・てき」ではなく「すて・き」なのだと、なおいっそう思えてくる。
語源を考えるのに、かんたんに漢字に惑わされたらだめなのですよ。みなさんほんとに当たり前のように「すてき」は「す・てき」だったとおっしゃっておられるが、そんな解釈は全部アウトだと思う。
それは、ただたんに思い違いというだけではなく、この世界や他者を祝福するということにたいする視点の底が浅いからだ。
やっぱり、ややこしくても「神の起源」をもう少し考えてみなければならない。