祝福論(やまとことばの語源)・「辻が花」3

誰がいい人でよくないかとか、何がいい社会で悪い社会かとか、もうそんなことばかり詮索していてもしょうがないと思う。
みんなセーフだし、みんなアウトだ。
とりあえず「今ここ」に人がいて、世界があるということ、その事実は受け入れてゆくしかない。
反省しろ、まっとうな人間になれ、といわれても、明日も生きてあることをあなたが保障してくれるのか。
保障してくれるのなら、僕は今夜、東京タワーのてっぺんから飛び降りてみることにしよう。一度やってみたかったんだ。
われわれは、次の瞬間には死んでしまうかもしれない可能性の中で生きている。
「今ここ」は、肯定するしかない。
いや、ただもう単純に、いい社会・いい人などということに興味はないのですよね。
「いい社会」をデザインする能力があるからといって、ちっともえらいとも思わない。私はいい人です、と正面切って自慢できる人なんかいないだろう。せいぜいどさくさまぎれにいい人ぶっているのが関の山だ。
いい社会とは何かとか、人はいかに生きるべきかとか、そんなことはどうでもいいのだ。
未来のことをどれほど賢明に思い描いても、そんな能力は死と和解するためには、邪魔にこそなれ、何の役にも立たない。まさにその能力によってこそ、人々は死におびえているのだ。
死んでゆくとは、「今ここ」の中に消えてゆくことだ。死は「未来」にあるのではない。
「今ここ」で死んでゆけるかどうか、それが勝負だ。
未来のより良い社会とか理想の社会とか、幸せがどうだとか、そんなことを正義づらして騒いでいるかぎり、古代の精神にもやまとことばの語源にも、もちろん「今ここの死」から浮かび上がった辻が花の美しさにも遡行できるはずがない。
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「今ここ」は、未来と過去のはざまにある。
しかし、そんな時間があるのかどうかわからない。「はざま」はあるが、「今ここ」という時間などない、ともいえる。
そうして意識は、つねに「今ここ」から一瞬遅れて世界を認識し、日々の暮らしの心は、たえず未来をうかがって、すでに「今ここ」を忘れてしまっている。
それでも、「はざま」はある。
日本列島は「間(ま)の文化」だといわれるが、「ま(間)」とは、「空白」のことだ。
過去と未来のあいだの一瞬の空白、「私」の身体と「あなた」とのあいだに横たわる「空間=空白」、自我がはたらく直前の無意識と意識の「間=空白」の意識。
「間の空白」を体験することは、決して簡単なことじゃない。いや、われわれはそんな瞬間など体験していないといわれても、否定はできない。
日々の暮らしは、「間」の外側で流れていっている。ふだんは、そんなことは意識していない。意識できることではない。意識したくない。
しかしその「間」は、たしかにわれわれの考えることや感じることのかたちをつくっている。この生の「スタイル」として、われわれはその「間」と関わっている。
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意識は、対象とのあいだの「空間」を見ている。
われわれは、どこかしらに「空白」にときめく心を抱えている。それは、この生のいとなみが、「空間」に気づく意識のはたらきの上に成り立っているからだ。そこのところでは、西洋人も日本人もない。
死は空白である……ということを受け入れるか、否定し乗り越えてゆくか。けっきょくそういう問題なのだろうか。
死んだら天国に行く、ということ自体、死が「空白」のイメージになっていることの証しである。「空白」とは「わからない」ということだ。誰も死んだことがないのだもの。死後の世界など、誰もわからないのだ。
「死んだら土にかえる」なんて、うそだ。肉や内臓は溶けてなくなってしまう。骨は、土にならないでそのまま残る。土になるものなんか何もない。死体を埋めたからといって、土が増えるわけではない。
ゴーギャンの絵のタイトルに、「われわれはどこから来て、どこに行くのか?」というのがあって、それを、人間の普遍的な問いである、などとよくいわれているが、われわれ日本列島の住民にはぴんと来ない。けっきょくそういう問いが、天国とか極楽浄土の絵を描かせているのだろう。
古代の日本列島においては、死んだあとは何もない「黄泉(よみ)の国」に行くことになっていた。つまりそれは、「どこにも行かない」ということだ。
われわれはどこから来たのでもないし、どこに行くのでもない。「今ここ」に存在し、「今ここ」に消えてゆくだけだ。この生も死も、われわれには「今ここ」しかない。
「今ここ」は「空白」である。
「死」は「空白」である。
「今ここ」に「死」がある。
「黄泉の国」のイメージは、そのまま「辻が花」のコンセプトでもある。(つづく)