祝福論(やまとことばの語源)・「辻が花」1

もしも人間というものが内田樹先生のいわれるとおりなら、僕の考えることはまったく空疎なものになってしまう。
そういう危機感というか不安がいつもあります。
こんなふうに内田先生の批判文を書いていても、当人は知りもしないし、知ってもたぶん痛くも痒くもないことだろう。
それでもなぜ書くかというと、僕のほうは、黙っていると、内田先生や内田先生を支持する人たちがたくさんいるこの社会からじわじわ追い詰められてゆく気分になってくるのです。そうして、足もとがふらふらして立っていられなくなる。
何とか自分を支えるために書いているだけです。
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辻が花という、奈良時代からあったらしい伝統的な染織物は、江戸時代の中ごろに突然歴史の舞台から消えてしまい、今ではもう復元することも難しいといわれている。
それは、縫い絞った部分を染め残してその白く浮かび上がったところを花の模様にしてゆくという技法で、絞り染めの一種なのだろうが、あんな単純なものではなく、ものすごく高度で複雑な技法であるのだとか。
またそんなやり方だから出来上がりの予測がつかず、いい模様が浮かび上がるかどうかはひとつのギャンブルのようなものだったらしい。
しかしギャンブルだからこそ、思いもよらない玄妙なかたちがあらわれてきたりして、それが作るものの心も着るものも魅了していった。
俗な言い方をすれば、その白く残った空白の模様には、魂を揺さぶるようなあでやかさと深みがあった。
たぶん、それこそが、日本列島の伝統的な「死」のイメージだった。
だからそれは、女の一世一代の晴れ着であるだけでなく、戦におもむく武士が鎧の下に着る勝負服にもなった。
日々の暮らしが死と背中合わせであった古代や中世の人びとは、そんなかたちで生きることにときめいていた、ということだろうか。
ただ、その生産効率の悪さは、近代という効率主義の社会ではもう、生き延びることが許されなかった。
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「辻が花」という名前の由来も、いまやもう定かではない。
室町時代にはそんな風に呼ばれていたが、初期のころの呼び名はわからないらしい。
奈良・平安のころは庶民だけのものだったから、文献に残っていないのだとか。そのころの支配階級は、織模様の服か、十二単のように無地のものを何枚も重ね着するとか、そんな習慣になっていた。
ともあれ「辻が花」という命名は、古代人のセンスであるような気がする。
なぜなら「辻(つじ)」ということばの「ことだま」は、この染め織物のコンセプトとみごとに重なっているからだ。
一般的には、「辻が花」の「つじ」の語源は、その模様の形状が頭の「つむじ」に似ているからとか、「つつじ」からきているとか、そんなふうにいわれている。
「辻(つじ)」の語源は「つむじ」である、といっている学者もいる。
しかしそれだったら、「つむじ」も「つじ」も同じことばだということになる。「つむじ」のほうが先にあったという根拠は、どこにあるのか。
「つじ」から派生して「つむじ」ということばが生まれてきた可能性のほうが高い。
「辻(つじ)」とは、二本の道が交差する地域のこと。
そして、頭の渦巻き部分である「つむじ」の「む」は、「むむっ」の「む」、行き詰って逡巡する感慨の表出。「もうおしまい」とか、「ややこしい」とか、そんな気分を表している。「むり」「むら」「むだ」の「む」。つまり、「つじ」がもっとややこしくなっているかたちを「つむじ」という。
「つじ」ということばがなければたぶん「つむじ」ということばは生まれていないし、「つじ」は、「つむじ」ではない。「つむじ」から「つじ」ということばが生まれてくる可能性は薄い。
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「辻(つじ)」ということばはとても古く、地名や苗字にもたくさん残っている。昔の人は、このことばにとても愛着があったらしい。
二本の道が交差するその地域は、どちらの道でもない、いわば空白地帯である。
だからそこは、古くから共同体の制度の及ばない独立した地域になっており、家から逃げ出した嫁や罪を犯したものの避難場所の施設がつくられたりした。そこに逃げ込めばもう、共同体のものは入り込むことができない約束になっていた。
また、空白地帯だからこそ、そこで「祭り」や「市(いち)」がもよおされ、ひときわにぎわう場所にもなった。
空白地帯の豊穣、それが日本列島の伝統的な美意識であり、「辻(つじ)」ということばと場所が愛されたゆえんにもなっている。
「つ」は、「くっつく」の「つ」。「辻(つじ)」は、二つの道が交差する(くっつく)ところ。
「し」は、「しーん」の「し」、「静寂」「空白」「固有性」の語義。
「辻(つじ)」とは、二つの道が交差した固有の空白地帯のこと。このときの「し」には、日本列島の住民の深い思い入れがあったはずだ。
そして辻が花も、糸で縫い絞って(交差させて)空白地帯をつくり、そこに豊穣の花を現出させるという染めの技法である。
であればもう「辻が花」という以外にないではないか。模様のかたちがどうのというのではない。人々がその空白であることの豊穣に驚きときめいていったという体験から生まれてきたことばなのだ、と思う。少なくとも中世までの日本列島の住民はそういう体験ができる心の動きを持っていたが、近代になってそれが失われてゆくとともに、辻が花もまた舞台から消えていった。
「空白の豊穣」、すなわち「秘すれば花」、これが、「辻(つじ)」ということばの「ことだま」であり、日本列島の歴史的な精神風土だった。
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神戸のどこかの女子大の教授であるらしいあの先生は、身体の物性に執着するばかりで、「空間=空白」というイメージがまったくない。そういう人種が、江戸時代の中ごろになると雲霞のように湧き上がりのさばってきて、その「空白の豊穣」をたたえた花をさまざまな色で塗りつぶし、「辻が花」を滅ぼしたのです。
秘すれば花、空白であることのとろりとした豊穣、そのとき日本列島の住民は、もうそんなものを見ることができなくなってしまっていたのです。
具体的なことをいうと、辻が花はとても非効率的な技法だから高価になるほかない宿命を負っています。だから、金持ちの支持が得られなければもう、生き延びることができない。しかしそのころの金持ち(商人)たちの多くは、色彩で埋め尽くされた友禅染のほうに傾いていった。
「空白の豊穣」を見る感性を失ったそういう連中によって、辻が花は滅ぼされてしまった。
そういう感性もないくせに「能舞」のお稽古をすればセレブだかブルジョアだかの仲間入りができたつもりになっているあの学者先生のような金持ちばかりの世の中になってしまったから、辻が花の命脈が絶たれてしまったのです。
「近代」と「貨幣経済」の問題ですね、それによって日本列島の住民の意識が上のほうから変質していったのです。腐っていったのです。
鈍くさい運動オンチであることを恥じもせずいい気になっているやつには能の舞は表現できない、そんなやつはやめといたほうがいい、と世阿弥もいっているのです。花伝書を読んでみればいいい。
秘すれば花
能の舞と辻が花は、決して無縁ではない。