やまとことばという日本語・「はぐくむ」

「育(はぐく)む」の語源は、「羽(は)くくむ」、鳥が羽の下に雛を包んで子育てをすることからきているのだとか。「くくむ」は、「包む」の古語。
万葉集に、
「旅人の宿りせむ野に霜降らば わが子羽ぐくめ 天(あま)の鶴群(たづむら)」
という表現がある、と万葉学の権威である中西進氏が教えてくれています。
遠い土地に旅をしているわが子がもし寒さに震えているのなら、空の鶴たちよ、その羽で包んでやっておくれ……と歌っている。
母の温かい愛を「羽ぐくむ=はぐくむ」というのだそうです。
しかし、「はぐくむ」とは、そんな語感のことばだろうか。今や「意味」が先行してそんなイメージのことばになっているが、「くくむ」ということばには、なにか苦しげなひびきがある。
「くむ」なんて、苦しげじゃないですか。「くるしむ」がつまって「くむ」になった。あるいは、「くむ」が発展して「くるしむ」になった。
「く」も「む」も、息がつまるような発声の音韻です。
「く」は、息がつまって体がこわばるような感慨からこぼれ出る音。「苦痛」「恐怖」「固定」「終結」の語義。
「む」は、息がつまって体が重たくなってしまうような感慨。「むづかしい」「むりやり」「むずむずする」の「む」。「停滞」「圧迫」の語義。
水道も井戸もなかった古代の「水汲(く)み」は、とてもしんどい仕事だった。家を建てるときに木を「組(く)む」ことは、木と木が絡まって固定されること。
「水汲み」だって、水と絡まりあうことだから、「水組(く)み」でもある。
「くむ」とは、重苦しいこと。絡まること。固定すること。停滞すること。
もしかしたら「羽ぐくむ」は、万葉人のことば遊びで、もともとあった「育(はぐく)む」ということばに、「羽ぐくむ」という表記をあてていったのではないだろうか。
「くくる」ということばがにごると、「くぐる」になる。「さざえ」「しじみ」「しみじみ」「つづく」「こごえる」「とどのつまり」「ただしい」「かがむ」「かがみ」「はかばかしい」「さめざめと泣く」「しらじらと明ける」「ちぢに乱れる」「けげんな顔をする」、同じ音がふたつ並ぶときは、必ずあとのほうがにごる。これが、やまとことばの法則らしい。
どうして「はぐくむ」というときだけは、先の音がにごるのだろう。
ほんらいなら、「はぐくむ」ではなく、「はくぐむ」になるはずでしょう。あるいは、「はくくむ」…「はっくむ」…「はくむ」と変化してゆくのが通例です。
「ぐくむ」なんていわないでしょう。「くぐむ」といったほうがしっくりくる。
ここで、どうしても先の音をにごらせなければならないわけとは、何だったのだろう。
このことばは、「は+くくむ」ではなく、じつは「はく」と「くむ」のふたつの動詞が重なったもので、「はく」でいったん留めるというか、「はく」と「くむ」の境界に立ち止まる感じで「はぐ・くむ」と発音するようになっていったのではないだろうか。
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「はく」は、「「吐(は)く」「掃(は)く」。余分なものを排除してすっきりすること。空っぽになること。
つまり「はぐくむ」というときの「はく(ぐ)」とは、お産をすること。子供を「吐(は)=掃(は)」きだして、すっきりすること、腹が空っぽになること。
「くむ」は、そのあと抱き上げて(汲む)、面倒を見てゆく(組む)こと。そのしんどさを「くむ」という。
生まれたての赤ん坊の面倒を見ることは大変です。いちいちおしめを取り替えたり、三時間おきにおっぱいを飲ませるのはもう、24時間体勢のハードな仕事です。
そうしてさらに無事に育て上げるのも、病気になったり怪我をすれば、昔の子供はあっけなく死んでしまったりするのだから、お母さんだって生きた心地がしない。
しかし、そういうあやうさややっかいさがひとつひとつ解消されて(=はき出されて)成長していってくれれば、これ以上のよろこびもない。
子供を育てることは、よろこび(=はく)としんどい苦労(=くむ)が交錯してゆくことだ……そういう感慨から「はく」+「くむ}=「はぐくむ」ということばが生まれてきたのではないだろうか。
「羽ぐくむ」という表記は、あとの時代のことば遊びであって、たぶん語源ではない。
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「は」は、もっとも息に近い音声。声が息に溶けている。「はあー」というため息の「は」。「空気=空間」の表出。
「林(はやし)」の「は」は、木と木のあいだの「すきま=空間」。「や」は、「ヤッホー」の「や」、「弓矢」の「や」、遠くに向かってゆくこと。声が遠くまで離れてゆくような心地がする発声。「遠い」の語義。「し」は、「しーん」の「し」、「静寂」「孤立」「侵入」の語義。
すなわち「林(はやし)」とは、木と木のあいだの「すきま=空間」を音もなく吹き抜けてゆく風に対する感慨の表出である。日本列島の住民の「は」という発声には、そのような「すきま=空間」に対するひとしおの感慨が含まれている。
「は」は、何もない「空間」、「く」は「終結」、「はく」というカタルシスがある。カタルシスとは、消えてゆくこと、すなわちカタストロフィー(消失点)。そして、「くむ」とは「まとわりつくもの」に対する重苦しい嘆き。「空間性」と「物性」。そういう悲喜こもごもの感慨から「はぐくむ」ということばが生まれてきたのであって、「母のあたたかい愛」などという制度的な物語を表出しているのではない。
「母のあたたかい愛」などということばは嫌いです。そんなものは、共同体が住民の心の動きを均質化させて支配をスムーズにしようとする作為から生まれてきたセンチで通俗的な「物語」にすぎない。
「物語」とは、良くも悪くも心にまとわりついてくるフィクションのことをいう。心にまとわりつくものを「もの」という。
「母のあたたかい愛」なんて、ただの「フィクション」です。
あたたかろうと冷たかろうと、母は母です。彼女らは、「母と子」というまとわりつく関係に心を揺さぶられながら生きている。
やさしくあたたかい母だけが母であるかのようないい方はくだらない。やさしいから「母」というのではない。子供との関係に揺さぶられている存在だから「母」というのだ。
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「はは」とは、「は……」というため息ばかりついている存在のことをいう。
「はは」とは、「なげく人」という意味。
女は、愚痴をこぼす生きものだ。僕の母親も、愚痴ばかりいっていた。たぶん女は、人類の歴史はじまって以来、ずっと愚痴をこぼしながら子育てをしてきたのだ。愚痴をこぼす生きものでなければ、子供なんか育てられない。そうやって嘆く存在であるからこそ、ほっとするカタルシスを汲み上げることもできる。
男は、嘆くほど子供に気づくことは出来ない。
万葉集のころよりずっと昔の、「はぐくむ」という言葉を生み出した古代人は、「母のあたたかい愛」などという陳腐なお題目で子育てをしていたのではない。ただもう嘆いたりほっとしたりしながら、心や自分の存在が空っぽになってゆくカタルシスを汲み上げていた。
それは、「愛」などではない。「快楽」なのだ。
たぶん、女にしか味わえないカタルシスなのだ。
「はぐくむ」すなわち「はく」を「汲(く)む」ことと解するなら、それは、子供の生存の不安定な要素が消えてゆく安堵の感慨の表出であると同時に、女自身の、心や体が空っぽになってゆくカタルシスを汲み上げゆくことでもある。
人間の歴史において、女たちが営々と子を産み育てるということを繰り返してきたのは、「母のあたたかい愛」などという制度的な物語によるのではない。子を産んで育ててゆくことのしんどさには、心や体が空っぽになってゆくカタルシスがあったからだ。
日本列島の住民は、まとわりつく物性のうっとうしさにことのほか敏感で愚痴っぽいと同時に、消えてゆく空間性からカタルシスをくみ上げてゆく心の動きをことばの文化としてもっている。
やまとことばの「はやし」や「はぐくむ」ということばには、そういう「空間性」に対する感慨がある。
子育てなんて、うっとうしくてしんどいばかりのいとなみでしょう。しかしその「嘆き」を味わい尽くすことによって女たちは、そこから深いカタルシスを汲み上げてゆく。
「はぐくむ」とは、子を産み育てる女の「嘆き」と「カタルシス」をあらわすことばであって、「あたたかい母の愛」という制度的で陳腐な物語など関係ない。