やまとことばという日本語・日本人の自立

NHKの爆笑問題の番組を見ていたら、あるイケメンの政治学者が、こういっていました。
「日本人は自立心が薄い。歴史的に日本が自立していたのは、満州事変から敗戦の年までのころだけである」と。
自立することがどういうことかよくわからないが、こういう知ったかぶりしたというか人間を上から見下ろしたような物言いは、あまり好きではありません。
戦争をしたがるなんて、自立していない証拠でしょう。そのときこの国は、日本列島の「今ここ」だけで、この世界やこの生を完結させることができなかった。それは自立していない証拠だ。
縄文人なんか、日本列島の外とは一切関係せず、国家という共同体をつくってそれに頼るというようなこともせずに暮らしつづけていた。国家などつくらなくても世界が完結していた。
「国家の自立」とか、「恒常不変の原理」とか、そんなものに頼るということ自体、自立していない証拠ではないのか。
縄文人は、国家などどうでもよかった。恒常不変の原理などどうでもよかった。正義とか常識とか良識とか、そんなものどうでもよかった。家族の幸せなんかどうでもよかった。
自立した正しい国家を建設することが、そんなに立派なことなのか。そんなものくだらなくてどうでもいいことだけど、今となってはもう、そういうものをつくらないとうまく生きてゆけない状況に置かれている、というだけのことでしょう。
常識や良識を持っている大人なんか醜くてくだらないだけだけど、われわれはそういうものをもたないとうまく生きていけない社会に置かれている、というだけのことでしょう。
家族の幸せなんかほんとにどうでもいいことだけど、家族を拠点にして暮らしてゆくと都合のいい社会になっている、というだけのことでしょう。
人との関係をマネージメントできる大人はえらいのですか。ただスケベったらしいだけじゃないか。そんな能力をありあまるほど持っていながら女房子供に逃げられた神戸の女子大の先生だっている。
僕は、そんなすれっからしの大人より、人との関係をマネージメントすることに途方に暮れている若者のふるえる心のほうが、ずっとすてきだと思う。
また、そのイケメンの政治学者は、低い声でぼそぼそっとしゃべる。それは、人は自分のいうことに耳を傾けるべきだという自信というかうぬぼれがあるからだろうか。もしもそういうかたちで人との関係をマネージメントしようとしているのだとしたら、まったくいけずうずうしい態度だというほかない。
そんなことを、自立というのか。
「自立」って、いったい何なのですか。そんなことばをもてあそんで逆説を弄して見せるのが、学者の知性なのですか。ああ、くだらない。