閑話休題・・ネット・カフェ・クルージングについて

最近「ネット・カフェ難民」の急増が話題になっているらしく、そういうことについて言及しているブログを見つけたのですが、そのページに寄せられたブロガーのコメントがあまりにも下品で通俗的なものばかりだから、少々腹が立ってきました。
いわく、無気力で向上心を持たない若者が増えている、困ったものだ、これはとても厄介な問題で、少しずつ改善してゆくしかない・・・・・・だそうです。くだらないと思いませんか。えらそうに、なに言ってやがる、て感じです。
僕は、大人であれ若者であれ、うまく社会にフィットしてぬくぬくと生きている人間ほど、無気力でこころざしが低い人間もいないと思っています。彼らには、金もないし家もないという生きにくさを引き受けるだけの気力もこころざしもない。
ネット・カフェ・クルージングをする若者が、そういう生きにくさをぜんぶ引き受けてでも怠けていたいと思うのだとしたら、それはそれで、世の俗物連中にはない、ひとつの確かな気力でありこころざしだと僕は思う。
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それで、われながらはしたないと思いつつ、つい次のようなコメントを書き込んでしまいました。
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どうして、そんなふうに人を上から見下ろすような言い方ばかりするのかなあ。大人であることが、そんなにえらいのか。ネット・カフェ・クルージングの醍醐味を体験した感受性から、新しい文化が生まれてくるかもしれないんだよ。新しい思想や哲学が生まれてくるかもしれないんだぜ。この社会にそういう「けもの」のような暮らしがあるかぎり、頭の薄っぺらな文化人がどんなにけちつけようと、エコロジーの思想はそうかんたんに滅びない、ということかもしれないんだよ。彼らは、新しい人間の歴史として、「けもの」のような暮らしの醍醐味を実験しているのかもしれないんだよ。石油も、もうそろそろなくなるころだし。それは、新しい何かが生まれつつある胎動であるのかもしれないんだよ。そんなふうに他人や社会ばかり嘆いていないで、自分を嘆けよ。自分が薄汚い大人になってしまったことを嘆けよ。
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そのページは、僕みたいな暴言はひとつもなく、仲よしこよしで肯きあっているのが美徳だと思っている連中で構成されています。そして、そういうえらそうなことを言うやつにかぎって鈍感で、僕の言うことなど屁とも思っていない。だから、次の日また、いけしゃあしゃあとコメントしてきている。
そんなわけで、僕はもうますますやりきれなくなるばかりです。
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まあこのブログの管理人は、僕の言っていることの趣旨にはおおむね賛成だが、ブロガーを非難する部分にはうなずけない、というようないい子ぶったコメントを返してきました。
また、賛成しつつ「しかしそういう萌芽はあるのでしょうか」ともいう。
小手先の論理で生きている知識人は、すぐそういう発想をする。僕は、「萌芽がある」なんてニュアンスのことは、ひとことも言っていない。「かも知れない」と言っただけであり、そういう可能性を感じさせる現象だ、俺はそういう目で見ている、と言っただけです。そのブロガーたちのように若者というのは愚かな生きものだという前提に立ったり、「富裕層と貧困層の二極化」といった既成の言説から一歩も踏み込めないこのブログの管理人のような、そんな思考停止の態度で見ることはしたくない、と言いたかっただけです。
実際に萌芽があるかどうかなんて、僕の知ったこっちゃないですよ。僕は、未来の彼らではなく、現在の彼らを肯定しているだけです。
だいたい、萌芽に気づいたときは、すでに新しいものが生まれている、ということです。それが、時代であり、歴史というものです。萌芽に気づくことなんか、誰もできない。われわれは、つねに「結果」として気づくことができるだけです。
誰かがミニスカートを穿いていて、ああミニスカートが流行りそうだ、と思うようなものです。気づいたときは、すでに生まれている。その最初にミニスカートを穿いていた女の子は、流行とは関係なく個人的な趣味で穿いていただけです。
新しいものの何たるかを知ったときに、はじめてあれが萌芽だったと気づくことができるのだ。
萌芽はあるか、とスケベったらしく未来をまさぐりながら分析してゆことなんか、無意味だし、手遅れなのです。
新しいものは、そういう態度からではなく、つねに「現在」にたいする反応として生まれてくるのだ。そのような「反応」を喪失して未来ばかりまさぐっている意識からは、けっして生まれてこない。
「現在」を拒否する反応、それが新しいものになる。
ミニスカートは、ロングやミディアム丈のスカートに対する拒否反応として生まれてきたのであって、先験的に独立したミニスカートのイメージがあったのではない。
そして、ネット・カフェ・クルージングをする若者たちにも、「現在」にたいする拒否反応はあるでしょう。なけりゃ、彼らだって、のうのうとありふれた市民生活を送っている。
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「向上心がない若者」だなんて、じつに愚劣なものいいです。
向上心とは、共同体に寄生しようとする衝動の別名です。田舎者ほど、そういう衝動が強い。しかし現在は、日本中のあらゆる地域が都市化してきて、若者たちからそうしたスケベ根性が希薄になってきている。いいか悪いかは、僕は知らない。しかしその状況を否定する趣味もない。
中世の歌人である西行は、そういう「向上心」を捨てて漂泊の旅に出ていった。そして、近代的自我による短歌、という新境地を開いた。日本列島には、そういう伝統がある。啄木も山頭火寺山修司もそこから生まれてきたのだし、現代のネット・カフェ・クルージングという現象だって、そういう伝統としてあらわれてきたのかもしれない。
茶室の広さは、2畳が原則です。中世の隠遁者や江戸時代の良寛が住んだ庵も、その広さだった。日本人は、どんな狭い空間にもなじんでゆける感性を持っている。ネット・カフェの「箱みたいな狭苦しい空間」なんて言い草は、歴史を生きていない鈍感な人間のいうせりふです。
戦後日本は、歴史や伝統を清算してスタートした。だから、そのときこの国の歴史や伝統が、いったん途切れているのです。その状況で団塊世代は育ってきたのだが、彼らも現役を退く時代になり、この社会から、歴史や伝統とは無縁の現実主義的精神がだんだん薄れつつある。
というか実際には、ホリエモンのように団塊世代の現実主義に訓練されて育ったより現実的な層と、ニートやネット・カフェ・クルージングをする若者のような、そういう社会や家族から遊離して伝統に浸されていった層との二極化が進みつつある。
したがってそれは、やる気と能力があって社会的に恵まれた層と、無能で無気力になっちまった貧しい若者、というような単純な図式では片付けられない問題なのです。
戦後の現実主義よりももっとラディカルでえげつない現実主義が登場してきたと同時に、歴史に浸されてゆく伝統的な意識がよみがえりつつあるのだ。
社会に寄生してのうのうと生きている薄っぺらな頭で「向上心がない若者」などとほざいている大人に、なにがわかるものか。
団塊世代も、団塊世代以降の団塊世代を批判している世代も、みな、彼らのことを「無能で向上心がない若者」として見ている。それは、そういう戦後生まれの大人たちには歴史や伝統に身を浸す感性というものが、まるで欠落しているからだ。
現代の「ギャル言葉」は、やまとことばの新しい表現である、といっている学者もいるのです。
戦後にいったん消えて地下水脈になっていたこの国の歴史と伝統が、ふたたび地表に現れてきた。現在は、そういう時代であるのかもしれない。
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ネット・カフェ・クルージングをする若者は、伝統的な現代の漂泊者なのだ。
今ふうに言えば、それは、「キャンプ」体験なのだ。
誰しもそう長くもない人生なのだから、そういう季節もあっていいでしょう。
どうせみんな、くたばっちまうんだぜ。
「少しづつ改善してゆく」だってさ。ご当人は、100年先も生きているつもりらしい。この世の中の主役として、100年先のことまで責任を持つつもりらしい。薄汚いナルシズムだ。そんなものは、愛でもなんでもなく、自分を正当化するために相手を否定してゆくという、若者に対するときの大人の常套手段であるサディズムなのだ。彼らの未来をうんぬんする前に、その「現在」をなぜ肯定してやれないのか。
そんな、自分が世の中を動かしているようなつもりのえらそげなことばかりほざいてないで、「ボン・ボヤージュ(よき航海を)」と言ってあげればいいだけじゃないか。