団塊世代が犯したエラー

承前
まあ、僕が団塊世代批判をしつこく発信し続けるのは、個人的なまわりの反応にたいする意地のようなものもあります。孤立無援、です。
ふだん、「古人類学の研究者なんかあほだ」といったりしているものだから、なおさら風当たりが強い。
しかしそれは、「王様は裸だ」といっているだけで、人を見下しているつもりなんかさらさらないですよ。
とにかく団塊世代が犯したラー、というものがあるのです。しかし団塊世代じしんがそれを自覚することなく、ひたすら自分たちを肯定してゆくというその態度は、同じ団塊世代の僕ですら目障りです。
そんなわけで、「団塊ひとりぼっち」という本にいちゃもんをつけてみたのです。
俺たち団塊世代だもんね・・・そのうぬぼれと居直りの混じったようないやみたっぷりの語り口に、僕は辟易させられた。
僕は無名の庶民で、むこうはご立派な文化人で、その僕が「安っぽいことばかり言ってんじゃねえよ、バカが」と思ったらいけないですか。言っちゃいけないですか。ひとまずそれだけのものは示したつもりだけれど、文句がある人はどうぞ。
なんといっても団塊世代は、存在そのものが「エラー」です。
彼らがうぬぼれていること、それじたいが「エラー」だろう、と僕は思っています。
ホームページやブログで、自分がいかに好ましい余生を送っているかをさりげなく見せびらかして悦に入っている団塊世代って、このごろけっこう多いですよね。「団塊ひとりぼっち」の著者も、まあ同じ人種だろうという気がします。
だいたいどうして彼らが自分たちの世代を肯定できるかといえば、「ひとりぼっち」の立場でものを考えていないからです。
「ひとりぼっち」の立場にたったら、自分自身の肯定できるものなんか何もないのです。
俺の人生もまんざらじゃなかった・・・と彼らはいう。そういうけちくさいことを言う団塊世代の人間は、もううんざりするくらいいますよ。
僕だって、大会社の部長になった人とかえらい作家先生になった人とか、多少は知っていますからね。いや、平凡なサラリーマンでしかなかった人だって、平気でみんなそう言っている。それは、まんざらじゃないと思うことのできない人生を生きるほかなかった人と自分を比べているからです。世の中には、ホームレスとか、そういう人はいくらでもいますからね。
彼らの頭は、先験的に、自分を群れのなかのひとりとしてとらえる視点がそなわっている。だからそんなのうてんきでむしのいいことが言えるのだが、逆にいえば、彼らに比べられている団塊世代の人は、必要以上にみじめな思いをしなければならない、ということでもあります。
自分を肯定してしまう団塊世代のえげつなさと、肯定できない団塊世代のしんどさ、そういううらおもてがある。
だから「団塊ひとりぼっち」という本は、不愉快だし、これもまた団塊世代が犯しているエラーのひとつかな、と思ってしまうわけです。
プロ野球のある大投手が、こんなことを言っていました。
現役を引退した今となってはもう、三振をとった球の感触よりも、ホームランを打たれた球の記憶ばかりが残っている、と。
意識とは、拒否反応のことです。身体が息をしなくてもいい状態なら、意識が発生する必要はない。息苦しくなったときにはじめて、息苦しいという意識=拒否反応が発生する。したがって、息をしなくてもいいらくちんな状態の記憶が残ることは論理的にありえないのであり、息苦しいという拒否反応の記憶ばかりが蓄積されてゆく。
ホームランを打たれた記憶ばかりが残ってしまうのも、原理的には、これと同じことでしょう。
人生なんて、うんざりすることばかりが気憶に残ってしまうのであり、「ひとりぼっち」であればあるほど、そういう記憶しか残らないのです。
しかし「息苦しい」と感じるそのしんどさのぶんだけ、息をすることのエクスタシーがもたらされる。
つまり、エクスタシーを知っている人間は、「俺の人生はまんざらでもなかった」とか「団塊ひとりぼっち」などというたわけたことはいわない、ということです。
ひとまず、団塊批判は、これで終わりです。明日からはまた、歴史のことを考えてゆきます。