団塊世代本からの感想Ⅲ

団塊ひとりぼっち」の著者は、最後に次のような締めくくりになだれ込んでゆきます。
「・・・感傷が人の人生をどれほど心地よいものにしてくれるか・・・この感傷という名のユルくて甘くて生暖かいエモーション。これこそが、目下の団塊に最も必要な、心のセーフティネットであり、精神のシェルターなのである。したがって、あなたがまずしなくてはならないことは、この『感傷』を日々鍛えてゆるぎないものにすること。そして、『このことを考えるといつもジーンとして涙が出そうになるんだよなあ(だから気持がいい)』という感傷の対象物を、いつでも取り出せるように、心の棚のいちばん手前に置いておくことだろう。」
まったく、よけいなお世話だと思いませんか。
この著者は、他人の精神生活を支配しようとし、人に教えてあげられるものがあると思い、下々の庶民は、教えてもらわないと何も見つけられないとたかをくくっている。
よくそんなことが言えるものだ。
こんな安っぽいアジテーションに引きずり込まれるのは、僕はごめんです。
俺にはそんな感傷などない、といいたいのではない。
白状すれば、われながら情けなくなるくらいのおセンチ野郎です。
だから、そんなものをいまさら鍛える必要もないし、そんなものを旗印にして生きていきたいとも思わない。
僕にとっての感傷などというものは、避けがたくやってくるものであって、こちらからつかまえにいくほど大切なものだとも思えない。
というか、つかまえにいくべき境地などというものはないのだ。
たとえば、「あなたは、ガンです。あと三ヶ月の命です」と宣告された人が、のんきに「感傷」などというおちゃらけた気分をまさぐっていられるだろうか。
この著者は、そういう立場の人にも、感傷を鍛えなさい、とえらそうにいうのだろうか。
彼が言うには、感傷に浸るもっとも有効なアイテムは、子供時代の思い出なのだとか。
死ぬということは、それらの懐かしいものがぜんぶ消えてなくなってしまうということでしょう。死んでゆく人がしなければならないのは、そういう思い出との「別れ」であって、うっとりとまさぐることではないはずです、そんなことに耽っていたら、ますます死ねなくなってしまう。
つまり、思い出を手放せない生き方をしていると、いざというときに混乱してボケ老人になっちまう、ということです。
そういう生き方と手を切るためにはもう、ボケるしかないじゃないですか。
つまりこの著者は、死ぬわけにゆかない人生を生きろ、といっているのです。
これこそまさに、団塊世代を先頭ランナーとして現代社会を覆っていった「制度性」の正体であり、このことをつついていけば、おそらく果てしない議論になるのだろうし、哲学の問題とも関わっている。
まあいい。
映画「ブレード・ランナー」に登場したレプリカント(人造人間)は、死が迫っていることを悟り、人間を前にしてこうつぶやきます。
 おまえたち人間には信じられないようなものを、俺は見てきた。
 オリオン座で燃えていた宇宙船、タンホイザーゲートのオーロラ・・・
 そういう思い出もやがて消える、雨の中の涙のように。
 そのときが来た・・・
死ぬことは、思い出と別れることであり、いつ「あんた、ガンです」と宣告されても仕方がない年齢にさしかかった団塊世代は、すでにそういう一瞬一瞬を生きているのです。そしたら、そういう覚悟は必要でしょう。そういう思い出と別れるトレーニングをしていないから、いざというときになって荒れ狂う。
子供時代の思い出なんて、社会人になることを逡巡している若者たちが、その逡巡を紛らわせるために語り合う話題なのです。
であれば、いいとしこいて死と無縁ではいられなくなった男たちがそんな観念行為にうっとりしているということは、死を受け入れることを逡巡し逃げていることにほかならない、ということです。
著者は、小津安二郎の映画と自分たちの少年時代を重ね合わせてゆく。
たしかに団塊世代の少年時代は、たとえ貧しくても、しみじみとした親の愛に包まれた幸せな時代だったのです。
だからついそんな時代の思い出をまさぐりたくなる。しかしそれは、そういう歴史のめぐり合わせに生まれてきた団塊世代の不幸であり弱点であり、いやらしいところでもある。
彼らは、生まれながらにして、そういううっとりするほど安定して確かな世界の中に置かれてあったからこそ、社会(共同体)に反抗したのです。
すなわち団塊世代は、孤立したことのない個人主義者たちなのです。彼らの頭の中は、つねに「子供時代の思い出=あたたかい家族」や「同世代の仲間」とともにあることの満足に浸されてある。だから「ひとりぼっち」であることにも平気なのであり、「ひとりぼっち」であることを自慢したがる。
著者は独身らしいけど、そんなものはたんなる「形式」であって、「メンタリティの中身」ではない。
同世代の仲間とわいわいやって生きてきて、なにが「ひとりぼっち」か。
「ひとりぼっち」のメンタリティなんか何も持っていないから、「団塊世代の余生は、友情と子供時代の思い出に耽る感傷が武器になる」とか「セックスはもういいんじゃないの」とか、そういうおちゃらけたことがいえるのだ。
僕は、いま目の前に存在しない友達も思い出も信じない。
僕は、いま目の前にあるものに反応して生きている。そういうふうにしか生きられない。だから、団塊世代文化人の団塊根性丸出しのご託宣なんか信じないし、信じる能力もない。
いま目の前に存在しない友達や思い出よりも、たとえば、いつも行く喫茶店のウエイトレスがにっこり笑ってくれたときの、そのささやかな一瞬の「ときめき(エクスタシー)」のほうを信じる。