団塊世代本からの感想Ⅱ

団塊ひとりぼっち」という本は、他の世代からの団塊世代に対する親しみをアジテートし、同世代の連帯感を再認識するために書かれたものらしい。
あのころは、そういう時代だった・・・ということが、鬱陶しくならないようにさりげなく、そしてけっこうきめ細かく書かれている。
あのころのことが知りたい人や、あのころの思い出に浸りたい人には、うってつけの本かもしれない。
著者の素敵な生き方や博学ぶりも、いやみにならない程度に上手にちりばめられてある。
しかし、団塊世代なんてしょせんこんなもんかな、というところは、最後のほうになって、団塊世代のこれからの生き方をうんぬんし始めてあらわれてくる。
だいたい、いい生き方って、なんなのですか。
誰がどう生きようと、勝手でしょう。
だめな生き方をしちゃ、いけないのですか。だめな生きかたをしている人間は、軽蔑に値するのですか。人間のうちに入らないのですか。
誰もがいい生き方を願っているじゃないか、なんて、そんなふうに決めつけてもらっては困る。そんなふうにいい生き方を願っている人間どうしの連帯で、願っていない人間なんていないことにされてしまったら、われわれのように行き当たりばったりで生きているだめな人間はたまったものじゃない。
そりゃあ、いい生き方ができればいいなとは思っていますよ。しかしいつだって、もうひとりの自分に裏切られて、ついしちゃいけないことをしてしまい、言っちゃいけないことを言ってしまう。
もうひとりの自分は、未来のいい生き方よりも、現在のこの世界に反応してしまう。そしてだめな僕は、自分がその反応をついに手放せないだろうことに気づく。
たとえば、ふだん惚れている美人のことを忘れてつい目の前のブスを口説いてしまう。だめな人間の人生には、そういうおばかな成り行きというものがいくつもある。
そんな人間が、そういう生き方はやめてこう生きろといわれても、途方に暮れてしまうだけです。
世の中は、いい生き方をしようとしている人間がつくっているのだし、そうやって肯きあって生きてゆくことに参加できないやつは、やっぱり「人間」の範疇に入らないのでしょうね。
しかし僕はやっぱり、こう生きればいいんじゃないの、というような言い方には、それがどんなにさりげない口調であろうと、なんかその人の権力志向を感じてしまう。
どうしてそんな言い方ができるのだろう。
どうしてそんな発想ができるのだろう。
なんか、人間を小ばかにしているとしか思えない。
たとえば「団塊ひとりぼっち」の著者は、60を過ぎたらもうセックスはいいんじゃないの、という。そんなことよりも、大切な友情とか思い出とか、もっとしみじみした人生の味わいがあるだろう、と。
やめてくれよ。そんなの、人それぞれでしょう。
友達や仕事のネットワークに恵まれて、セックスはもういいよ、と言って余裕しゃくしゃくに生きている人もいれば、真夜中の町をひとりさまよいながらズボンの中に手を入れ「やりてえなあ」とつぶやき続けるホームレスのおじいさんもいる。
それはもう、人それぞれの人生模様でしょう。
そのおじいさんがもし、同じホームレスの女にめぐり合ってのしかかってゆくチャンスがあるとすれば、僕は、そのときの彼のエクスタシーのほうが、余裕しゃくしゃくの文化人の空々しい満足よりも、ずっと素敵だともうらやましいとも思う。
そりゃあ、そこまで人生や社会から追いつめられたら、エクスタシーという見返りも、けっして小さくはないでしょう。
もういいならいいでけっこうだけど、なにもそれを自慢するこたあないだろうし、おまえらもそうやって生きろなんて、よくそんなえらそうなことが言えるものだ。
団塊根性まるだしですよね。
団塊世代は、いつだって家族の愛や友情に浸された「満足」とともに生きてきたから、友達も家族も関係ない、というような孤立感を味わったことがない。だから、そういう嘆きを知らない代わりに、本格的なエクスタシーも知らないのです。
ほんとうに「ひとりぼっち」の嘆きやエクスタシーを体験してしまった人間なら、「もういいんじゃないの」なんて、のうてんきなことをいってられないはずです。
エクスタシーは、反芻することができない。
だから、たとえ体験しても、それでもういいというような「満足」は得られないのです。逆に、エクスタシーを体験する観念の習性ができてしまって、そこからつねにある種の欠落感(欲求不満)を強いられねばならなくなる。
まあそのへんの「構造」は、僕なんかより、女やあのホームレスのおじいさんほうがずっとよく知っている。
僕は、人生にエクスタシーは必要だと思っている。
べつにセックスでなくとも、そういう「欲求不満」を持っている人間は、生きているかぎりどこかで何かしらの「ときめき」を体験してしまう。息をすることだけだっていい、たとえそれがどんなささやかなものであっても、僕はそれを信じる。
団塊世代文化人の、「もういいんじゃないの」というふてぶてしい余裕や満足よりも。