原始人とストレス

ちょいと小うるさいことを書いてみます。
1・・・・・・・・・・・・・・・
生き物の体に異物が入ってくると、これを排除しようとする作用が生まれる。こういう働きを、ホメオスタシス、というのだそうです。拒絶反応ですね。その異物を「非自己」として排除するのだとか。「自己」と「非自己」を認識すること、それが生命作用の根源だ、というわけです。
でもこれは、ちょっとおかしい。素朴な疑問として、ちょっとおかしい。
われわれは、「非自己」を排除して生きてなどいない。そんなことが生命作用であるなら、新しく口から入ってくる食い物は「非自己」そのものであるのだから、生きてなんかいけないじゃないですか。それに、精神的にも、誰とも仲良くできない。男にとっての女なんて、「非自己」そのものでしょう。生きることはむしろ、「非自己」を受け入れ吸収するいとなみであるのかもしれない。
生き物の根源に、「自己」などというものがあるのでしょうか。
われわれは、他者と出会ったときに、その関係のなかで「自己」を発見する。これ、心理学の常識です。
で、このとき関係が成り立たなくて他者を排除しようとするなら、そこで「自己」が発見されていないからです。排除するのは、「自己」ではないし、排除してしまったら、そこにはもう他者がいないのだから、「自己」であると認識する手がかりもない。
身体は、ほんとうに異物を排除しようとしているのか。ほんらいは「異物=非自己」を受け入れ吸収してゆく働きなのだが、受け入れられるものと受け入れることができないものがある、ということなのではないでしょうか。
身体は、「自己」などというものとは無縁の「世界(環境)の一部」としておさまっていたいのです。息をする必要も食う必要もない、「世界(環境)の一部」です。身体は、「自己」でではなく、「世界(環境)の一部」であろうとする。身体がスムーズに働いているということは、そういう状態であるということです。
根源的には、「自己」であることのできないストレスなどというものはない。
空腹であることも寒さも時間も忘れて遊びに夢中になっていた、つまり「我を忘れて」という状態のとき、ストレスは発生しているでしょうか。生きものにおいては、「自己」なんかなくなってしまったほうがいいのです。
ストレスは、「世界(環境)の一部」であることができないことによって引き起こされる。
つまり、異物を排除する「自己」などというものがあるのではなく、ただ「吸収することができない異物がある」というだけのことであり、ストレスは、そのできないはずの異物を吸収してしまったときに、吸収してしまったところで起きる。ストレスが発生するとは、「自己」が発生するということであり、異物を排除するとは、「自己」を排除するということかもしれない。
生物学者の言い分にしたがえば、みずからの細胞は、たとえ古くなっても「自己」であるはずです。そして新しく生まれてくる細胞は、異物としての「非自己」である、ということになります。しかし身体は、その「自己」であるはずの古い細胞を容赦なく死滅させ、「非自己」である新しい細胞を迎え入れる。
生のいとなみとは、「自己=生」をたえず否定しながら、「世界の一部」であろうとし続けることであるのかもしれない。
つまり何が言いたいのかというと、「自己のアイデンティティを確立する」という一般的な言説などつまらない、ということでしょうか。「かけがえのない自分」なんてものも、どうでもいいこと。生きものはほんらい、「自己」になろうとするのではなく「世界の一部」になろうとして生きている。それが、生きものとしてのまっとうな生き方なのです。
世界の一部になろうとしてついになれないという「不条理」として、この生が成り立っている。
「かけがえのない自分(命)を大切にする」なんて言い草は、共同体の陰謀なのです。人々がそういうスローガンで生きてくれたら、共同体の権力が支配しやすいからです。
まあ、それによって自分もまたこの社会で生きていきやすくなる、ということもありますけどね。
しかしこの生の根源の仕組みはそういうふうにはできていないし、それに逆らって生きようとするから、あれこれややこしい病理的な問題も生まれてくる。
2・・・・・・・・・・・・・・
おそらくネアンデルタールは、「かけがえのない自分(命)」などというものに対する執着はなかった。つねに他者を見つめ抱きしめていたし、つねに世界を見つめ世界と格闘していた。
彼らは、大型草食獣に対して、いつも命知らずの狩を挑んでいった。だから骨折することも日常茶飯事で、彼らに、「かけがえのない自分(命)」などという認識は無縁だった。
彼らは、自分にかまってなどいられなかった。寒さに震えている自分や自分の体のことばかり考えていたら、それこそ生きるのがいやになってしまう。
彼らは、極限的な「世界の一部になれないストレス」をかかえて生きていたのです。
そして、「世界の一部」になろうとひたすら願った。
彼らは、それまでの人類史上において、もっとも大きな群れを形成していた。これは、人類史において、画期的なことであったはずです。他のどんな動物よりも「自分」というものにこだわる人間は、ほんらい群れをつくることに向いていない生きものなのです。その生きものがチンパンジーの群れなんかよりずっと大きい150人もの規模の集団をつくってゆけたのは、自分を忘れてひたすら「世界の一部」になろうとする願いをもって生きていたからでしょう。
そのときネアンデルタールは、人類が都市や国家をつくってゆくその後の歴史の扉を開いたのです。
原始人に生きてゆけるはずがない環境を、それでも生き延びてみせた彼らの「世界の一部」になろうとする願いがどんなに切実なものであったか。その絶望と背中合わせのひりひりするような切実さが、彼らの脳を発達させたのです。
生きものにとってのストレスは、「自分」になれないことではなく、「世界の一部」になれないことにある。
ネアンデルタールを知ることは、現代について考えることです。現代人は「自分になってしまう」から精神を病むのであって、「自分を喪失する」からではないのです。そして自分になってしまうのは、自分になりたいからではなく、自分にならないと生きていきにくい社会があり、その社会が自分になれと強迫してくるからです。
まあ、はじめに書いた、生物学者が説く「自己」と「非自己」というパラダイムも、そういう現代社会の構造にはめこまれた思考にすぎない、ということであろうと思えます。

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