[石器時代」という呼び方について考える

石器時代、という。
研究者は、石器によって、その時代の人類の知能や生活レベルや社会の構造がわかると思っているらしい。
石器のことなんか、大して重要な問題ではない。確かに石器の問題にしてしまえればことは簡単だが、石器を物差しにして計ってしまうことの迷妄というのもある。
それは、研究者たちがつくってきた「制度」であって、こんなことで人間の知能や生活のどれほどのことがわかるというのか。
石器は、人間の「知能」が作り出したのではない。何かのはずみで生まれてきたものでしょう。
アフリカのホモ・サピエンスが生み出したという、薄片の大量生産できる後期旧石器文化。それは、あるとき、何かのはずみで生まれてきたにちがいない。
石と石をぶつけていて偶然薄片がこぼれ落ちたのが、きっかけだったのでしょう。
だって、そういう石器を見たことも使ったこともない者が、そういう石器をイメージできるはずないじゃないですか。
人間は、野球をしようと思って野球というゲームを生み出したのではない。棒を持って振り回したりしているうちに、いつの間にかそういうかたちになっていった。サッカーにしても、骸骨を蹴っていただけの暇つぶしから始まっている
言葉の起源も、いきなり「おはよう」と言ったのではない。
言葉だろうとスポーツだろうと石器だろうと、「起源」というのは、そうやって偶然から生まれてくるのです。
それは、知能の問題ではない。
そういう石器を必要とする社会の構造がホモ・サピエンスにはあったし、ネアンデルタールにはなかった、というだけのことです。
そしてそれは、ホモ・サピエンスの社会が発達していたからではない。ネアンデルタールはもとのままの石器でじゅうぶん生産力を高めていたし、ホモ・サピエンスはもとのままでは不足だった、ということです。
ネアンデルタールがアフリカのホモ・サピエンスより大きな脳を持ち頑丈な体をしていたということは、なんにせよネアンデルタールのほうがたくさん獲物を狩猟してたくさん食っていた、ということです。
寒いんだもの、食わなきゃやってられない。それに対して南では、少しのあいだなら、食わなくてもじってしていれば何とか生き延びられる。ネアンデルタールは、狩をはじめとする食料調達に熱心だったが、おそらく南のホモ・サピエンスには、それほどのモチベーションはなかった。
現在の南北問題における「北の飽食」に対する「南の飢餓」という図式は、そういうネアンデルタールの時代から続いている食料調達に対する圧倒的なモチベーションの差という伝統にもよるところはあるはずです。
ネアンデルタールの石器が旧式だったからといって、それがそのまま食料調達の能力に劣っていた、ということにはならないのです。ホモ・サピエンスが狩を一度で済ませるところを、ネアンデルタールは二度も三度も出かけていた。ホモ・サピエンスが狩の獲物を魚や小動物を中心にしていたのに対して、ネアンデルタールは積極的に大型の草食獣に向かっていった。ネアンデルタールは、ホモ・サピエンスよりもずっと狩という行為が好きだった。なぜなら、北では体を動かさなければ寒さが身にしみるし、南は、動けばひどく体力を消耗し、体温も耐えがたく上昇してしまう。数え上げたらきりがない。南のホモ・サピエンスのほうが食料調達の能力に長けていたということは、論理的にありえないのです。
ネアンデルタールは、もとのままの石器が性にあっていたのです。それで「知能が劣っていた」なんて、余計なお世話だ。ネアンデルタールはいつも狩ばかりしていたから、石器がどんどん体や技術になじんでいって、かんたんには変えたくなかった。彼らは、狩をすることそれじたいが好きだったのです。
それに対してホモ・サピエンスは、できるだけ楽して狩がしたかった。だから、石器が改良されていった。それは、知能の問題ではない。社会の構造=情況の問題なのです。
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その偶然こぼれ落ちた薄片を見て、
ホモ・サピエンスは「いける!」と思った。
そしてネアンデルタールは「違う!」と思った。
それだけホモ・サピエンスは、狩での失敗に苦心していた。 
しかしネアンデルタールはもとのままの石器(ムステリアン)を使いこなすのにじゅうぶん習熟していたから「違う!」と思った。彼らは、そういう「技術的知能」が発達していた。
ネアンデルタールは大型草食獣を肉弾戦でしとめるという狩をしていたし、アフリカのホモ、サピエンスは投げ槍で小型の獣を狙うことが多かった。そういう違いもあるのでしょう。
とはいえ、知能の問題でいえば、「違う!」という反応のほうが高度な働きなのです。人類は、この判断を洗練させてゆくことによって、より高度な文明や文化へと飛躍していった。それは「ゼロの発見」への第一歩だったのかもしれない。
コンピューターだって、「違う!」という働きの上に成り立っている。
何事においても、「違う!」という判断ができるのがその道のエキスパートであり、素人は、半端なものでもかんたんに感心してしまう。
石器文化だけで知能や生産構造がはかれると思うのは、知能や社会の構造とは何かということを本気で問うていないからです。まあ中学生に説明するためならそれで間に合うだろうが、研究者の学問というのはそういうものでもないでしょう。

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