中田英寿という選手に人気があったのは、彼が、観客の願いである、身体を支配し超克するということを実現してみせてくれた、と観客が感じたからだ。それほどに彼は、意志の力と闘争心をみなぎらせているように見える選手だった。本人がどういう気持ちでプレーしていたかは、知る由もないのだが。
身体に対する観念の優位性、ということだろうか。現代の観客たちは、そういうものを選手に託して観戦している。
託さずにいられないほど、現代人は、みずからの身体に手を焼かされている。
身体なんかほったらかしにしておけば、手を焼く必要もないのだが、なんとしても支配せずにいられない。
しかし身体は、必ずそうした観念をうらぎる。
必ず歳をとって衰え、死んでゆく。
体が歳をとらないための商売も研究(アンチ・エイジ)も、このごろいっそう盛んになってきているようで、さほどに現代人は、歳をとることに耐えられなくなってきている。
現代人のほうが昔の人より衰えが早くなっている、というのではない。むしろ昔の人のほうが、心も体も早く年寄りになっていった。
それでも現代人は、まだ足りない。
若さという美を手に入れたい、という言い方は正確ではない。そういう意識の底に、一日でも長く生きていたい、死にたくない、できれば永遠に生きていたい、という欲望が潜んでいる。
どうやら現代人が身体を必要以上に支配しようとするのは、死にたくないからであり、死が怖いからであるらしい。
しかも厄介なことに、本人たちは、それを自覚していない。あくまで美しくありたいだけだと思っている。
現代人の死の恐怖は、意識の底に沈殿してしまって、表面に現れてこない。
おそらく、手に負えないくらい部厚く沈殿してしまっている。
だから、認知症にも鬱病にもEDにもなる。
普段意識していないから、いざそのときになって、気持ちが対処できない。
遺伝子操作や臓器移植は、「生の尊厳」のためだ、という。そういうスローガンで、死(の恐怖)とのかかわりを、意識の底に封じ込めて先延ばしにしてしまう。
ここで厄介なのは、それらが死の恐怖をなくしてしまうことではない、ということです。なぜならなくしてしまったら、遺伝子操作や臓器移植のモチベーションや意義が薄れてしまう。
死の恐怖は、大きければ大きいほどいい、しかし、意識されてしまってはいけない。意識してしまったら、いつか死を受け容れてしまう。
意識しないで、意識の底に死の恐怖をどんどんため込んでゆく。現代社会は、つまりそういう構造になっている。
スポーツ観戦を含めて、何が健全かということはわからないし、健全であること自体が、いいことかどうかもわからない。
ただ、ネアンデルタールは、われわれ現代人ほど身体への関心を強くして身体を支配してゆくということはなかったはずで、それが彼らの狩猟生活をはじめとする人生の流れをダイナミックにも豊かにもしていたとはいえるような気がします。
したがって、われわれがそこから学ぶことは、きっとたくさんあるはずなのです。

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