ちょいと横道にそれてみます。
日本における最も現代的なプロスポーツとは何か、ということを考えた場合、サッカーとマラソンを挙げることができるかもしれない。
前者は団体競技で、後者は個人競技、違うといえば違うが、どちらも、競技者のプレーやゲームの性格に、「人生」の気配をにじませているところが似ているとも言える。
人生山あり谷ありだというなら、サッカーはもうめまぐるしく攻守が入れ替わるスポーツです。しかもそれが、規則的にではなく、つねに何かの弾みで起こる不測の事態から生まれてくる。
人生なんて、不測の事態の連続だ。だから面白くもあり厄介でもある…と誰もがどこかしらで思っている。
友達と楽しく遊んで家に帰ったら、お母さんに、遅いといって叱られた。おまけに夕飯を食ったらすぐ塾に行かされて、もうへとへと…そんな日々の流れのように、ゲームが動いてゆく。
また、そういう繰り返しが、ゴールという大きな出来事によって、いったん中断される。それは、受験の合格通知や結婚式のようでもあるし、失恋や死の体験のようでもある。
ラソンにしても、先頭に立ったからといってそれで安心というわけではない。気を抜いたら追い越されるし、後ろを走っていても、いつか追いつけるかもしれない。
みんな、何かしらの不安やあせりや気がかりを抱えて走っている。それはもう、観客の日々の暮らしと同じでしょう。
ペシミズム、ですね。その要素が、うまい具合にゲームの立体感を生み出してゆく。
ただの単純で楽天的なスポーツではない。
身体と身体のガチンコ勝負だ、というのとは、ちょっと違う。
ガチンコ勝負の醍醐味を味わいたいなら、100メートル走やラグビーのほうがいい。
しかし現代ではもう、そうした身体へのストレートな信頼とか信仰といったものは、希薄になっている。
現代人は、身体を支配(=マラソン)し、あやつる(=サッカー)ことに関心があるらしい。
素人は、プロに対して「よくあそこまで思い通りに体が動かせるものだ」と感じる。
しかしプロの側からすれば、「そんなもの、体が勝手に動いているだけだ。そう動くまで、俺たちは練習しているんだ」と言うかもしれない。
プロは、体なんか思い通りには動かない、と思っている。だから、練習する。
素人は、思い通りに体を動かすのがプロだ、と思っている。
選手と観客との、この微妙な温度差。これがあるから観客は熱狂し、プロスポーツというものを成り立たせている。
まあそこが、プロになれるものとなれないものとの差なのかもしれない。
素人の中でも自分の思い通りに体を動かそうとするものほど、運動が苦手である。つまり、運動神経が鈍い。
男に比べて女がその能力において劣るのは、女のほうが、自分の体を支配しようとする傾向が強いからでしょう。それだけ女は、自分の体に手を焼き、こだわりも強い。女は、そういう生理的社会的条件に置かれて生きている。
とはいえ、現代においてプロスポーツが盛んになってきたということは、たんなる経済発展だけの問題ではない。現代社会の観客は、男も女も、昔に比べるとますます自分の体を支配しようとする意識が強くなってきている。
だから、人生の気配が色濃くにじんでくるサッカーやマラソンというスポーツに人気が集まる。
なぜか…それが、次回のテーマです。