ネアンデルタールの子供は、子供だけの社会を持っていた。しかし乳幼児の死亡率が高いその社会では、大人たちに早く次の子供を産んでもらって次々に補充してゆく必要があった。だから大人たちにそれををせがんだろうし、死という絶対的な別れを知っている彼らは、現代の核家族の子供と違って、新しいメンバーとの出会いのときめきも豊かに持つことができたにちがいない。
大人たちにしても30数年という平均寿命で乳幼児の死亡率も高いのであれば、群れの規模を維持するためには、生まれてくる子供は多ければ多いほどよかった。
彼らの実質的な平均寿命は、トータルで十五年くらいだった、とも言われている。
また、乳幼児の死亡は、女の子の方が圧倒的に多かったらしく、女の成人が少ない社会だった。だから女にかかる負担はとても大きく、しかし男を選ぶ権利もまた、とうぜん彼女らにはあった。
したがって社会の構造として、ネアンデルタールの大人たちは、セックスして子供を産むことに熱心だった。
そうして家族という単位のない社会だったから、誰と誰がセックスしようと自由です。また、パートナーを一人に決めようと複数にしようと、きっと女の勝手だったのでしょう。
そのとき洞窟の中はもう、現代の「お見合いパブ」みたいな状況だったのだろうと想像できます。「お見合いパブ」は、女が、寄ってきた男たちのなかから選ぶというのが一般的な傾向で、しぜんにそうなるのだとか。おそらくネアンデルタールの洞窟も、そんなふうだったのでしょう。
女たちはもう、どの男がいいかという吟味が、どんどんうるさくなってゆく。
ただ、集団のチームワークで大型草食獣の狩をし、その大きな肉をみんなで分け合っていた彼らは、どの男が稼ぎがあるとかないとかというような差はなかった。
もう、純粋に男っぷりの勝負です。しかも女が少ない社会なのだから、男たちは大変です。魅力のない男は、いつまでたっても女がまわってこない。
男を磨く・・・このことは、日本では、たいてい社会的地位や名誉や稼ぎでイメージされるが、ヨーロッパでは、純粋に男としての魅力が問われることも多い。これは、そういうネアンデルタールの伝統であり、日本では「男を磨く文化」が遅れている。
家族的小集団で行動していたアフリカのホモ・サピエンスは、狩の能力がなければ、独立して家族を持つことができない。ただその代わり、能力さえあれば、何人でも女を持つことができる。男っぷりなんかどうでもいいし、女もそれを問わない。ホモ・サピエンスの家族間ネットワークの社会において、女は、交換の商品だった。だから、女の幼児のクリトリスを切り取って性感を必要以上に持たないようにしてしまうという「割礼」の習俗も生まれてきた。さらには、妻が150人という、とんでもない部族の族長なども現れてくる。
現代におけるアフリカンサッカーは、個人プレーに走りやすく、なかなか組織戦術が育たない。だから、圧倒的な身体能力を持っていても、ワールド・カップで優勝できない。しかしそれも、上のような歴史と伝統を持っているのであれば、仕方ない部分もある。何しろ、強いやつが名誉も富も女も独り占めしてしまう社会の構造なのだら。
それに対してヨーロッパのたとえばドイツサッカーは、一人のストライカーを押し立てて残りの10人が働き蜂に徹して走り回る、という戦術を取る傾向がある。これは、点を取ったやつだけが得するわけではない、というネアンデルタール以来の伝統があるからこそ成り立つ戦術でしょう。まあだからこそ、ヒットラーのような存在も現れてくるのだが。
で、女たちがそのようにして徹底的に好みだけで男を選んでゆけばどうなるかといえば、けっきょくいちばんはもう、なんとなくの「相性」とか抱き合ったときの「感触」とか、そういうことになる。次に、一生懸命口説くとか、口説き方が上手だとか、そういうことになってゆくのでしょうか。
いずれにせよ、単純に、口説きがうまいとか男前だとかということがいちばんにはならない。そこが、ネアンデルタールと同様、ヨーロッパ女のややこしいところです。
しかしそれは、きわめて動物的であると同時に、究極の男女関係でもあるのかもしれない。

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