「愛」という言葉は、あまり好きじゃないけど、そういう「心」の働きについて考えてみます。
人との関係を「味わう」心と、人との関係を「つくる」心、この違いの問題です。
研究者は、関係を「つくる」ことが「愛」であり、それが人間ならではの前頭葉の働きである、という。
そうでしょうか。
人と人が仲良くすることなど、単なる手続きです。そんなことは、犬でも猿でもしている。どうしてそれが人間独自の脳の働きなのか。
仲良くする方法がある。その通りにすれば、仲良くなれる。ホリエモンの言うように、仲良くするくらい、金を出せば手に入れることができる。
それは、単なる形式であり、べつに相手に対するどんな感慨も必要ない。そうして、仲良くすることが目的なのだから、その関心は、仲良くしている自分に向いている。相手に対して、ではない。
というか、「関心」だけがあって、相手の存在に対する「感慨」がない。
人との関係をつくる能力なんか、たいした前頭葉の働きを必要ともしない。だったら、結婚詐欺師やスケコマシと呼ばれる男たちはみんな知能が高いのか、ということになる。たくさん女を誘惑すれば上等な恋愛小説が書けるかといえば、そんなものじゃない。
関係をつくる能力よりも、関係に対するある感慨を抱いてそれを表現してゆく能力のほうが、ずっと高度な知能の働きであるはずです。
関係をつくるために「相手の心を読む」のが前頭葉の働きであり知能である、と研究者は言う。
しかし人の心の中なんか誰にもわからないし、われわれはふだん、そんなことをして人と付き合っているでしょうか。心なんか、読んでいない。相手が表現した表情や言葉の意味を解釈しているだけです。
それは「心」ではない。あくまで表情であり、言葉そのものです。
「心を読む」のではなく、表現された意味を解釈するのが、前頭葉の働きです。そしてそれは、自分自身の「表現する」という体験に照らし合わせて解釈される。
言葉は「表現」であり、「表現」を交換することを、会話という。
世界に対してある「感慨」を持ち、それを表現してゆくことによって前頭葉は発達するのであって、研究者の言うような、「心を読む」などという下司なかんぐりや「関係をつくる」などという浅ましいたくらみが人間を人間たらしめているのではない。
相手に対する「感慨」として意識が働いているのは、自分への「関心」が消えているときです。
たとえば、寒くてしょうがないときに相手を抱きしめれば、相手の体ばかりを感じて、自分の体のことは忘れてしまう。つまり、そこで生まれた「関係」から、相手に「感慨」を持たされてしまう。「感慨」は、「関心」ではない。
極寒の地を生きたネアンデルタールは、つねに寒さに震えている自分に対する「関心」から解放されたいと願っていた。
では、それで直ちに他者に対して関心を向けていたかと言えば、それもまた他者に関心を向けている「自分」への関心でしかないのだから、それで解決するわけではない。
彼らはもう「関心」そのものを消去していった。
彼らが狩でよく骨折するくらい勇敢だったのも、身体への無関心による。
女たちが平気で妊娠してたくさん子供を産んだことも、身体への無関心がなければできることではない。
彼らに「関心」などなかった。
コップは、空っぽだった、のです。
しかしだからこそ、そこに水を注ぐことができる。
「感慨」という水を。
抱きしめあった他者の身体に対する感慨、自然に対する感慨、死者に対する感慨。
西洋人の「まなざし」は、われわれ日本人よりも、はるかに濃密です。だがそれは、他者に対する関心が強いからではない。「感慨」が深いからです。見つめずにいられないようなかたちで、目の前に他者が存在しているからです。
特にネアンデルタールは、自分(の体)に対しても外の環境に対しても、「関心」を持っては生きられない状況にあった。
外の厳しい自然も、突然逝ってしまった死者も、関心を向ける対象ではない。ただもう避けがたく「感慨」を抱くほかない対象だった。
「愛」とは、「無関心」のことです。
もっとも高度で複雑な前頭葉の働きとしての表現する知能は、「感慨」から生まれてくるのであって、「関心」からではない。「関心」が強ければ、「感慨」は薄い。
他者に対する「関心」を強くして身体装飾に熱中していったアフリカのホモサピエンスと、ひたすら「感慨」に生きたネアンデルタールと、いったいどちらの知能が発達していたか。
少なくともこれは、偏差値が自慢で知能という言葉が好きな研究者が考えるほど、単純な問題ではない。

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