ネアンデルタールの脳容量は、寒さのストレスを処理するためだった、といっている研究者はいます。しかしこれだけの説明なら、アマチュアでもできる。
ボクシングのある世界チャンピオンは、「パンチがヒットするかしないかは、足の裏半分の十センチだけ、より踏み込むことができるかどうかにある。その勇気が、プロとアマの差だ」といっています。ネアンデルタールは、同じエネルギーでも、体に脂肪を貯めて「寒さから逃れる」よりも、脳を大きく知能を発達させて「寒さに耐える」ことを選んだのです。脳が発達すれば、それだけ多くのエネルギーを消費するし寒さに敏感にもなって、かえって寒さに弱くなってしまうのです。プロだったら、そこのところまで踏み込んで考えてほしい。
人間だもの、ネアンデルタールには、ネアンデルタールの歴史の深さと豊かさがきっとある。そういう文化人類学的なアプローチを、現在の考古人類学者たちは、なぜしようとしないのか。
ネアンデルタールの人口が何人ていどで、どこで、どんな暮らしをしていたかとか、それだけですむはずがない。
たとえば、埋葬ということにしても、どれだけ死を深く悲しむ知能があったかとか、そういう問題ではない。北のネアンデルタールには彼らならではの世界観があったはずだし、南には南の世界観があったでしょう。埋葬するという行為は、そういう「世界観」によってなされるのであって、ただの知能の問題ではない。
埋葬の問題は、いずれあらためて考えますが、とにかくわれわれが研究者に望むのは、そういう十センチ踏み込んだ思考です。それもできないで、置換説を納得させようなんて、われわれ読者を馬鹿にしている。

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