祝福論「やまとことばの語源」・「神話の起源」41

道で、誰かと出会う。
「私」はときめく。
このとき、「私」が見ている他者の画像は、「私」の感性による解釈に染められていない。
このとき「私」は、その根源的な視覚がとらえた画像を、みずからの感性によって処理してゆくということをしていない。
根源的な視覚がとらえた画像そのままを受け止めている。
このとき「私の感性」は、「根源的な視覚」から、一瞬遅れて生起している。
このとき、「私の感性」が「視覚」を支配しているのではなく、「視覚」が「私の感性」を支配している。
それは、私の「感性」や「観念」が吟味しつつ処理していった画像ではない。生きものとしての生な目と脳のはたらきがとらえた生な画像であり、私の感性や観念は、それと出会ってときめいている。
それは、私の感性や観念を「超越」した画像である。感性や観念、すなわち「自己」によって処理することのできない根源的な画像。その不可能性に心が揺らぐことを、「ときめき」という。
われわれはふだん、自己の感性や観念によってそうした根源的な画像を細工してしまっている。感性や観念によって細工しながら、この世界や他者を吟味しながら生きている。
ここで仮に、感性や観念のことを意識の「上部構造」とし、生きものとしての先験的根源的な視覚画像をつくっている意識を「下部構造」ということにしよう。
意識が他者にときめいているとき、感性や観念としての「上部構造」は、根源的な「下部構造」によって決定されている。このとき「上部構造」は「下部構造」の「超越性」に気づき、「下部構造」を塗り替えることの不可能性を体験している。
たとえば、なんとなく恋人がいつも以上にきれいに見えたとき、もう感性や観念の「上部構造」がそこに侵入する余地はないだろう。そんなようなことだ。
ぼんやり見惚れてしまうだけだろう。
世界は美しく輝いている……直立二足歩行をはじめた原初の人類は、世界がそのように立ち現れる体験をした。つまり人間の無意識は、世界が美しく輝いて見えるようにできているのだ。
われわれの無意識は、この世界が存在することの不思議に驚きときめいている。
感性や観念(上部構造)によってこの世界が美しく輝いて見えるのではない。われわれは、感性や観念によって世界の美しさを語ることはできるが、世界の美しさを体験できるわけではない。
人は、生まれたばかりの子供のような目(下部構造)でこの世界と向き合ったときにこそ、世界が美しく輝いているという体験をする。そしてそういう視線を、じつは誰もが心の奥に持っているのだが、そういう無意識との通路を失ったとき、人は、精神を病んでゆく。世界が、輝いて見えなくなってくる。
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人間の心は、もともと世界や他者の存在に驚きときめくようにできている。
意識は、無意識の「視覚画像」から一瞬遅れて発生する。
西洋の哲学は、無意識の「視覚画像」を、なにやらわけのわからない混沌とした画像であるかのように解釈している。そしてその混沌を、「意識」によってまとまった画像として処理してゆく、意識によってはじめってまとまった画像になる、と彼らはいう。つまり、そういう「理性」に対する信仰というものがある。 
赤ん坊はこの世界を曖昧模糊とした画像としてとらえている……という解釈が、現在の哲学においても心理学においても言語学においても、当たり前のように了解されている。
それは、おかしい。
われわれの無意識が出会った世界はまず、クリアな画像として現れる。「意味」を持っていないだけだ。世界は「意味」によって整合的な画像になる、などという西洋人の世界解釈は、「理性主義」というたんなる迷信なのだ。
われわれの無意識は、意味などわからなくてもちゃんと整合的な画像として世界をとらえている。
それがそういうかたちをしているのなら、そういうかたちとして無意識の画像に表れるのだ。つまり、意識が世界をどういうかたちとしてとらえるかは、世界が決定するのであって、見るほうの「自我」のかたちが決定しているのではない、ということだ。
「意味」を解釈する「自我」においてはじめて世界は整合的なかたちを持って現れる……などという世界解釈など、西洋人のただの迷信なのだ。
「意味」なんかわからなくても、世界は、世界のかたちそのままに見える。世界がどう見えるかは、世界が決定しているのであって、われわれの「自我」が決定しているのではない。
赤ん坊だって、われわれと同じように世界が見えているのだ。彼らは、われわれよりずっと世界にときめいて生きている。それは、彼らが世界をそのままのかたちでとらえているからであり、われわれのように「自我=意味」などというもので画像を細工してしまったりしていないからだ。
赤ん坊だって、りんごとみかんの区別はちゃんととらえている。彼らにおいても、世界は、あるようなかたちそのままに見えているのだ。
そんなこと、当たり前じゃないか。生きものはみな、世界をあるがままのかたちでとらえている。「自我」によって世界は正当なかたちに現れる(解釈される)なんて、そんなことあるはずないじゃないか。西洋人は、どうしてこんな途方もない迷信を、当たり前のように信じてしまっているのだろうか。そしてわれわれもまた、なぜ当たり前のように説得されてしまうのだろうか。
オケラだろうとミミズだろうと、ちゃんと世界は世界としてとらえている。
「世界を認識する」とは、それが「みずから身体ではない」と認識することであり、そういうかたちで「意識」が発生するのだ。

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人間がなぜそのような根源的な視覚画像が生起した瞬間と出会ってときめくかといえば、それが「この世界は美しく輝いている」という体験だからだ。そのようにして、上部構造の意識が下部構造の意識との通路を往還する体験だからだ。
感動するとは、無邪気になる、ということだ。他者にときめくことのできる人は、無意識の世界と往還するタッチを持っている。
「精神を病む」とは、無意識の世界に入り込むことではなく、無意識の世界との往還のタッチを失って、心が「意味」に幽閉されてしまうことである。
統合失調症分裂病)は無意識の病である、などという迷信が大手を振ってまかり通っているが、それはおかしい。
それは、無意識のタッチを失って、自我が肥大化してゆく病ではないのか。
たとえば、その病が進むと、目の前の机が自分の身体の延長のように思えてしまったりするらしい。そのとき意識は、「自我」が肥大化して、「自我」によって世界を解釈してしまっている。
無意識は、世界と身体が分かたれてあることを知っている。分かたれたまま、世界にときめいている。分かたれてあるから、ときめくことができる。
統合失調症の患者は、「分かたれてある」という事実を失って、世界や他者にときめくことができなくなってしまっている。
相手と向き合って黙りこくっていると、気まずい思いがわいてくる。それは、心理的に相手との距離感があいまいになって、相手の存在が自分に張り付いてくるからだ。おそらく、この体験の延長として、統合失調症がある。
それは「私という意味」に幽閉されてしまった病なのであり、「共同体」は、個人をそのようなところに追い込んでしまう性格を持っている。
そのとき彼は、自分に張り付いてくる他者存在を、引きはがせなくなっている。そしてそれは、無意識が突出してきていることではなく、無意識との通路を失っていることなのだ。
意識は、環境世界に対する反応であり、身体と世界が分かたれてあるという前提から生起する。したがってそういう前提を失えば、意識のはたらきも鈍くなってしまうほかない。
彼らにとって世界は、「よそよそしいもの」ではなく、「まとわりついてくるもの」なのだ。
彼らは、他者との付き合いを嫌っている。怖がっている。それは、他者のそばにいると、心理的に他者の存在にまとわりつかれてしまうからだ。それほどに自意識過剰になってしまっている。それは、「関係性の不幸」であり、無意識を喪失した「自意識の病」なのだ。
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彼らは、「あちらの(無意識の)世界」に行ってしまったのではなく、行けなくなってしまっている。
われわれのこの生は、無意識の世界との往還ができないと、とても生きにくいものになってしまう。ときに、無邪気に笑ったりときめいたりする体験は必要だろう。四六時中覚めていたら、息苦しくて、心はいつかぷつんと切れてしまう。
無邪気に笑って「おはよう」ということばが交わせたら、それだけでも救いになる。
「あちら(無意識)の世界」、すなわちそれは「超越性」の問題だ。
彼は、他者が自分から切り離された存在であるということがうまく実感できない。そしてそれは、じつは「無意識」の領域で実感されていることなのだ。
他者の超越性とは、つまり、他者が自分から切り離された存在であると感じられることだ。それだけのこと。それ以上でも、以下でもない。しかしそれが、けっしてかんたんなことではない。われわれは、気になる相手のことは、なかなか自分の心から引きはがせなくなってしまう。人の心は、そうやって追いつめられてゆく。
それは、相手の心が「わからない」からではなく、「わかった」ような気になってしまうから追いつめられるのだ。
相手は「自分のことをバカにしている」とか、「恨んでいる」とか、そんなふうにあれこれわかった気になって追いつめられてゆく。
待ち合わせて遅れてきた相手が、「忙しかったもので」という。そのときあなたは、他者の超越性とともに「ああそうだったのか」と納得するのか、それとも他者のことが「わかった」気になって「つまらない言い訳しやがって」と思うのか。
相手のことが「わかった」つもりになったからといって、気が晴れるというものでもないだろう。そうやっていつも「わかった」気になってしまうということは、あなたがそれだけこの社会に毒され追いつめられているということだ。
そうやってこの世界を正確に科学的に客観的に見る癖ばかりついて、いつも「わかった」気になってしまうから、「ときめき」というものを失ってゆく。つまり、心が他者やこの世界とくっついてしまうことはこの社会の「制度性」であり、誰もがそこから追いつめられている、ということだ。
「わかった」という近代の病。
内田樹先生は、こんなことをいっておられる。
「自分の中に<わかった>という<こびとさん>が住んでいて、それがわれわれの<知性>になっている」と。
そういうことじゃないのですよ。内田先生。それは、われわれが背負わされている制度性であり、それによってわれわれの生がどんなに生きにくいものになってしまっているか、あなたのように他人をなめきって生きている人にはわからない。
われわれに必要なものは、「わかった」という自己撞着ではなく、「わからない」というかたちで他者の超越性にときめいてゆく体験なのだ。
知性とは、「わからない」というくるおしさに分け入ってゆく心の動きのことである。
そのとき他者は、意味を超越した存在としてわれわれの前に立ち現れ、そのことにわれわれはときめいている。