祝福論(やまとことばの語源)・「ことだま」 13

原初のことばは、一音だった。
それは、きっとそうでしょう。
あるときその一音に対する愛着が集団内で生まれ、共有され、その一音を発することがちょっとしたブームになっていった。
たとえば「さ」という音声でもいい。その集団はやがて、何かあると誰もがすぐ「さ」という音声を発するようになっていった。
その集団は、「さ」という音声を「共有」することによって結束していった。集団がなごんでいった。
そのとき「さ」という音声は、もはやただの音声ではなく、ひとつの「ことば」であった。
それはたしかに「ことば」にちがいないはずだが、「意味」を伝達する機能を持っていたでしょうか。
西洋かぶれした学者連中のいうような「差異化」の機能を持っていたでしょうか。
ただ無邪気に、その「さ」という音韻にとりついただけじゃないですか。
「さ」という音韻に「ことだま」を感じただけじゃないですか。
べつに、あっちの村では「な」といっているからおれたちは「さ」でいこうと決めたわけじゃない。べつに、その音韻を選んだわけじゃない。その音韻にどんな「意味」があるかということなど、誰も知らなかった。それでもそれは、たしかに「ことば」だった。ことばとして、人と人の関係を落ち着かせ、祝福していた。
人間は、根源的に「共有」する生きものである。
「共有」と「伝達」は、矛盾する語義です。すでに「共有」しているものを「伝達」する必要などないし、「伝達」することなんかできない。
「ことばが発生した」とは、「ことばが共有された」ということだ。
そのとき話すものも聞くものも、その音声を「一緒に聞く」という体験をしている。「聞く」という体験を「共有」している。
なんだかせつない話だと思いませんか。
思い切って陳腐な言い方をしてしまえば、これは「愛」の問題でしょう。「愛」とは「共有」することであって、「与える」ものでも「伝える」ものでも、さらには「救う」ことでもない。
人間は「共有」する生きものである。少なくとも原始人は、そういう心の動きで暮らしていた。
「ことば」の本質は「差異化」にある、などとほざいている西洋かぶれしたあの連中にはわかるまい。
ことばは自己と他者を「差異化」する、てか?
おまえら、そういうことにして自分への執着を正当化しているだけじゃないか。そうやって自分のIQを誇示しながら世界の謎を解いて見せているような言い方をされると、ほんとに頭にくる。むかむかする。
少しはそのいじましいスケベ根性に気づけよ。
「差異化」などしなくても、人間はすでに先験的根源的に差異化されて存在しているのであり、そこから「ことば」の問題がはじまるのだ。
少なくとも原始人は、そういう認識で暮らしていた。
おめえらみたいに、他人より抜きん出ようとするそのスケベ根性を正当化し、それにしがみついて生きていたのではない。
他人より抜きん出ようとするその「差異化」の衝動それ自体が、すでに共同体の制度性に囲い込まれている心の動きなのだ。囲い込まれて身動きできないでいるから、抜きん出ようとする。囲い込まれているから、そんなふうに体の動きが鈍くさいのだ。
原始人は、すでに差異化されてあるみずからの存在のありようを嘆いて暮らしていたのであり、そういう心の動きから「共有」の機能としての「ことば」が生まれてきたのだ。