内田樹という迷惑・女にとって出産は労働であるのか

現在のこのブログにおける内田批判の肝は、内田氏のいう、
「人間の本性は<労働=献身>することにある」とか、
「<成熟>することが<人間になる>ということである」
などという主張をしっかりと突き崩すことにあります。
それができなければ、ここまで書いてきたかいがない。
彼は、この主張を錦の御旗のように振りかざして、えらそげにふんぞり返っている。
こう言えば、誰もがひれ伏すと思っていやがる。
こう言って、人間の本性が誰よりもわかっているつもりでいやがる。
こんな薄っぺらな思考で「人間の本性」を深く確かに認識しているつもりでいるなんて、あつかましいにもほどがある。
内田氏の言説がいかに愚劣かということは、この主張をしっかり突き崩すことによってはじめて確信できる。
この人は、人間観そのものが薄っぺらなのだ。
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で、僕は、その試みを、人間の歴史における「神の発見」というところから考えていこうと思った。
しかしこれは、思った以上にやっかいな試みだったということを、今にして気づき始めています。
だんだん、ただの感想文だけではすまなくなってきそうな雲行きを感じる。
たとえば「むすび」ということばひとつだけで、一生をかけた研究になってしまう。こだわったら、きりがない。こだわりたくないけど、こだわるしかないと思えることが、いくらでもでてくる。まったく、やっかいだ。
とにかく僕には感想文しか書けないし、学者でもないのだからそれ以上の面倒なことなどしたくない。
とりあえず感想文だけで行けるところまで行くしかないのかな、と思う。
学者は、研究や分析をするから、考えることの底が浅く狭くなってしまうのだ。
感想文だからこそたどり着くことのできる地平もきっとある。
それは、足場を固定しない、という態度であるわけで。
内田さん、あなたは口だけは達者だけど、思考のフットワークが鈍くさいのですよ。それは、「労働」だとか「成熟」だとかいう、くだらない足場を固めてしまっているからだ。
もちろん僕のフットワークだっておぼつかないかぎりだけれど、足場は固定していない。
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現在の学者たちは、天地のはじめとしての「産霊(むすび)の神」の「むすび」という言葉に「終わり」という意味を見ていないらしい。
どうしてだろう。こんなこと、子供でも持ってしまう疑問なのだけれど、誰も説明してくれていない。
女が子を「産(う)む」。このときの「うむ」という言葉に、「新しい生命の誕生」という意味があるのだろうか。「うっ」と息がつまり、「むむ」と立ち止まって考え込み、「うむ」とうなずく。「うむ」とは、そういう音韻なのだ。つまり「うむ」とは、「ものごとが<終結>する」と言っている言葉なのだ。
女にとって「子を産む」という行為は、みずからの生や大地との関係を切り結ぶ、という「終結・完了」の体験なのだ。やまとことばは、「産(う)む」という言葉にそういう感慨をこめているのであって、「新しい命が生まれてくる」というような、たんなる「現象」のさまを説明しているだけではない。
「産む=生まれる」という現象は、大地との関係が切り結ばれる現象である、とやまとことばは言っているのです。
単純に、女が股を広げて赤ん坊をひりだす、というようなかたちを説明しているのではない。そういうことなら、英語の「ボーン」という言い方のほうがずっとさまになっている。
股を広げて赤ん坊をひりだすことは、ひとつの「労働」です。
しかし、「大地との関係を切り結ぶ」という行為は、「労働」ではなく「遊び」であり、より根源的な生のいとなみでもある。古代人は、そういうところを見ていたのであって、現代の学者のように表面的なことをぺらぺらなぞっていたわけではないのです。古代人のほうが、ずっと深い(本質的な)ところを見ていたのだ。
生きることは世界との関係をむすぶ「遊び」であって、何かを生産するというような「労働」ではない。すくなくとも彼らは、そのようにこの生を自覚していた。
内田氏は「人間とは<自己意識>である」と言っている。何をくだらないことをほざいていやがる。生きることは天地(=世界)を祝福することであって、額に汗して働く自分にうっとりすることじゃない。そんなふうに自分をまさぐってなんかいたら、誰も子を産むことはできない。子を産むことは、自分を捨てる行為なんだぞ。自分を捨てて、はじめてあの苛烈な苦痛に耐えることができるのだ。自分を捨てて天地(世界)を祝福してゆくことによって、彼女らはその「受難」に耐えているのだ。
内田さん、子を産むことだって、世界を祝福する「遊び」なのですよ。
「遊び」は、ただへらへら笑い呆けることだけじゃない。ときに「労働よりももっと苦しいことでもある。あなたなんぞに、何がわかるものか。「遊び」とは「受難」なのですよ。それが、出産という行為がわれわれに教えてくれていることです。
少なくと古代人は、そこのところをちゃんとわかっていた。
「産(う)む」とは、大地との関係を切り結ぶこと。人類史的にいえば、定住してゆくこと。人間にとってそれはたぶん、「受難」という「あそび」なのだ。