感想・2018年7月21日

<おたがいさま>
現在のこの国の母子家庭・父子家庭の割合は、だいたい全体の一割くらいらしい。
その数が多いのか少ないのか知らないが、とくに母子家庭は経済的に困窮している場合が多く、そうなると子供の教育には大きなハンディキャップになる。そして経済の問題だけでなく、子供の心が不安定になりやすいということもある。
その不安をバネにして成長する場合もあるだろうが、心を病んだりいびつになったりすることも多い。
経済の問題がいちばん大事なのだろうが、心のケアだって大切にちがいない。
片親であると、なぜ不安になるのだろう。
親との1対1の関係になって、親のストレスをもろに受けてしまう。そうして、自分は望まれていない存在だと思ってしまう。
近くに親せきがいたり、昔のように町内会の大人たちの世話とかがあれば多少はその不安も和らげられるのだろうが、現在の母子家庭は孤立してしまっていることが多い。
母子家庭の多くの母親たちは、子供の前ではできるだけ明るく振る舞おうとするのだろうが、無理をしているのなら、子供は必ず見抜いてしまう。
天然自然に明るく楽しく振る舞うことは、誰にでもできることではない。この世界のことを知りたがる好奇心と、この世界の輝きにときめいてゆく感性がないと難しい。苦労をすると、そういう知的好奇心やときめく感性が磨滅してゆく。貧乏が、というだけでなく、貧乏が差別される社会状況の圧迫も小さくない。
経済の繁栄を目指すことが第一義の社会なら、貧乏人はますます肩身が狭くなる。おまけに、むやみな核家族礼賛の風潮のもとで、母子家庭に対する差別的な視線もある。
そしてそんな社会状況を反映して多くの凡庸な古人類学者が、人類の歴史は経済の繁栄を目指して進化発展してきたのだと語っているわけだが、それはまったく違う。
人類史の進化発展は、経済(=下部構造)の問題では説明がつかない。
それだけですむのなら、女たちだって母子家庭になる道は選ばない。
けっきょく、人と人の関係が人類の歴史を動かしてきたのだし、人の一生もそれによって動いてゆく。生きることに率直であればあるほど、そうなってゆく。浅はかな選択だといわれようと、浅はかでなぜ悪い。
彼女らは、鈍感であるよりは、浅はかであることを選んだ。
まあ今どき流行りの人妻の不倫だって、浅はかな行動であることには違いないが、それがいいとか悪いとかということは、誰にも言えない。
人と人の関係、すなわち「人情」の問題、そのことに鈍感な人間に、未来の社会はどうのこうのとか、人類の歴史はこうだったああだったといわれても、「どうしてそんないい加減なことをいうのだろう」という感想しか浮かんでこない。
とにかく、母子家庭の母と子がどう生きてゆけばいいのかという問題は、政治経済だけで解決がつく問題ではない。
人が生きているということは、なやましくくるおしいことだ。
彼女らが肩身の狭い思いをしないでもすむ世の中は、どのようしてやってくるのだろうか。
「かわいそうだ」と思ったり「政治が何とかしろ」と叫ぶのもけっこうだが、世の中のそういう「市民意識」が彼女らを追いつめているということもある。
けっきょくのところ、弱いものどうしがおたがいさまで助け合い励まし合うことこそが希望であったりする。