「姿」の文化・神道と天皇(15)

神道以前の「かみ=かむ」という言葉は、「神」のことではなく、たんなる「出会いのときめき」をあらわす言葉だった。感動で胸が震えること、感極まること、人々の生きてあることのよすがは、その体験にこそあった。
現代人だって、その体験がなければ、心を病んでしまう。
古代の民衆にとっては、現代人のような物質的な満足や幸せなど望むべくもないことで、その不足をやりくりして生きていただけだろう。生きるいとなみは、精神的にも物質的にも身体的にも、あくまで不足をやりくりすることだったのであり、「生命賛歌」の充足や余裕なんかなかった。平均寿命がどうのといっても、病気や怪我をすれば誰もが明日にも死んでしまうかもしれない条件の中で生きていた。まあ人類の歴史の99・9パーセントはそういうかたちの生存で推移してきたのであり、生命賛歌ができるような充足や幸福や余裕は誰にもなかった。彼らは生きられなさの「嘆き」とともに生きていたのであり、それでもというか、その「嘆き」を契機にして世界は輝いて立ちあらわれてきた。人と人は、「嘆き」を共有しながらときめき合っていた。
「世界は輝いている」ということ、そのことに気づいてときめいてゆく体験とともに「かみ=かむ」という言葉が機能していた。宗教なんかなくても人はそういう体験をするだろうし、つまるところ現代人だってその体験をよすがとして生きている。
世界は輝いて立ちあらわれているかどうか、それこそが人類普遍の生きてあることのテーマであるのかもしれない。
自分を気にしてばかりいると、心を病んでしまうし、ブサイクな人間になってしまう。世界の輝きにときめく心を失ってゆく。この生の充実、などという問題は存在しない。この世界は輝いているかどうかということ、それが問題だ。

先史時代にアニミズムが存在するべき必然性など何もないのだ。
古代以前の日本列島に宗教なんかなかった。宗教なんかなくても「ときめく」という体験があれば人は生きられるし、その体験を道連れにして生きるようにできている。
「かむながら」というやまとことばは、おそらく「まことにもって」という最終的な感慨をあらわす慣用句だった。しみじみと深くそう思うこと。だからこそそれが「神」をあらわす言葉にもなってゆく必然性があった。
神道祝詞の神に捧げる枕詞として「かけまくも畏(かしこ)き」などといわれたりするのは、ようするに「感極まる」というようなニュアンスであり、その姿の見えない神に対する「遠い憧れ=ときめき」を捧げているのだ。
神道の神は、自然の中に隠れている。存在するのではない。自然の本質として、存在する「気配」を感じるだけの対象なのだ。「本質に気づくこと」を「かむ」といい、「本質それ自体」を「かみ」という。
自然に対する驚きとときめき、それは、原初の感慨であると同時に、人としての最終的な感慨でもある。それを「畏(かしこ)き」という。だから、手紙の最後に「かしこ」と書く。「かしこまる」というのも、そういう「畏敬」の念をあらわしている。そして「かけまくも」は、「捧げる」という意味。遠い憧れ、すなわち遠いものに思いを馳せることを「かけまくも畏き」という。
西洋の「ゴッド」が自分と神との関係をもとにして自分を確立させてくれる存在だとすれば、日本列島においては、自分と神との隔絶した関係に立ちながら自分を忘れて神に対する「ときめき=遠い憧れ」を捧げてゆく。
なにはともあれ「かみ」というやまとことばは、この生の最終的な根拠というか本質を指していう言葉だった。

弥生時代奈良盆地に人が住み着くようになり、ときどき集まって祭りをしながら、やがて祭りのシンボルとしてのカリスマが祀り上げられていった……天皇の歴史はおそらくそこからはじまっているのであり、そこから徐々に徐々に大和朝廷という権力機構が支配する社会が出来上がっていった。
天皇がいきなり登場してきた支配者だったのなら、いずれは次の支配者に倒され取って代わられる。それが「王殺し」という人類普遍の歴史の法則であるが、天皇の場合はそういう存在ではなかった。天皇は、民衆に祀り上げられながら、徐々に徐々に「天皇」になっていった。だからそうかんたんに天皇を殺すわけにいかないし、その代わり天皇は、権力者による権力の不在証明というか隠れ蓑として機能してきた。何もかも天皇が支配し君臨していることにすれば、権力者は安全な場所に隠れていられるし、すでに日本列島の社会はそういうかたちでしか民衆を支配できない構造になってしまっていた。天皇に取って代わることはできないし、取って代わらないほうがより強く支配することができた。
天皇制が生まれてくる歴史過程の蓄積があるのであって、いきなり生まれてきたのではない。民衆にとって天皇は、自分たちで祀り上げている存在だから、天皇のいうことは何でも聞くしかない。まあ古代以前の歴史過程においては、権力者にとっても民衆にとっても、すでに天皇を祀り上げていないと生きられないような仕組みになってしまっていたのだ。
古代の天皇は、「大王」と書いて「おほきみ」と呼ばれていた。しかしこの「おほ」は、「王」という意味ではない。「大奥様」とか「大旦那」というときの「おほ」なのだ。彼らはひとまず支配者であることから引退した人たちであり、同時に現在の支配者の「支配の隠れ蓑」として機能している存在でもある。つまり、「天皇」のような存在なのだ。日本列島の社会は、あちこちにそういうシステムが機能している。
江戸の大店の経営は番頭さんが仕切っていて、旦那は吉原で遊び呆けている。戦国大名が軍隊を派遣するとき、ナンバー2に実際の指揮をとらせて、勝手なことをする大将はすぐ首にされる。農民社会にしても、村の災害救助や祭りのときは、「若衆宿」の若者たちの主導によってなされていた。
能では、「翁」という無力な年寄りのカリスマ性を表現することが主題になっている話がある。これだって、天皇制の問題でもある。
「おほ」は、「王」ではなく、「覆う」の「おほ」であり、「表面的なお飾り」と言い換えてもよい。天皇は、ただのお飾りだけど、人々の生を支えているカリスマでもある。それは、それなりに長い歴史過程を経て徐々に徐々に生まれてきたシステムであり、天皇がいきなり奈良盆地に現れて支配者になったというようなことは、おそらく史実ではない。そんな存在であるのなら、別のものが天皇を殺して取って代わっても何の支障もない。最初の天皇がそうしたようにそうしただけのことだ。そういうことではないから、こんなにも長く続いてきたのだ。

古代の天皇はひとまず日本列島を覆う「神」だったが、実質的な支配者だったという確証は、じつはない。史書においてはつねに天皇が支配していると書いてきたが、聖徳太子推古天皇のような関係が、理想の支配者と天皇の関係だったのかもしれない。邪馬台国における卑弥呼と弟の関係もそのようなものだったし、じっさいに天皇が絶大な権力をふるったという時代なんか、ほとんどないのかもしれない。天皇の仰せだといえばみんながいうことを聞く、という社会の構造になっていただけだろう。そうやって権力者たちは、天皇を隠れ蓑にして、好き勝手に権勢をふるってきた。
天皇であることのアイデンティティは、あくまで「祭司」であることにあった。
政治はそのまま祭りでもあったといっても、政治が祭りになることはできても、祭りが政治になることは困難だった。権力者が、民衆を祭りの盛り上がりのように「もう死んでもいい」という勢いで束ねてしまうことは都合のいいことだったが。権力者が社会秩序に対する意識を捨てて「もう死んでもいい」という勢いを持ってしまったら政治にならない。そういう意味で、祭りは政治にはなれない。支配=被支配の関係を無化してしまうことが祭りであり、それを利用して支配=被支配の関係を強化してゆくのが政治なのだ。政治は、その盛り上がりを利用して民衆を一網打尽にしてしまおうとするし、民衆のお祭り騒ぎがそのレベルを超えて盛り上がってゆくことは許さない。
祭司である天皇が政治をリードしてゆくことは、けっしてかんたんではない。表向きは何もかも天皇が取り仕切っているようなかたちになっていても、できることはただ、その権力者承認するかどうかということくらいだろう。
神道の祭司である天皇に政治の能力はない。神道には、「呪術」がない。人は、呪術とともに政治に目覚める。仏教には呪術があった。古代においては、仏教のがわにいないと政治の場に立つことはできない、というような傾向があったのだろうか。天皇だって、ときには出家した身の「上皇」になって政治の主導権を握ろうとしたが、もはや天皇でないのなら、政敵から情け容赦なく追放されたりした。
神道が「国家神道」として呪術的政治的な傾向を強めていったのは、中世の天皇が政治の場から置き去りにされていった時期と歩調を合わせている。武家政権の時代のそのころはもう、たてまえ上の「天皇が取り仕切る」というかたちすらも必要としなくなっていた。そうなると天皇のまわりにいる貴族たちや神社のがわの既得権益がどんどん削られてゆくし、その流れを押しとどめようとして神道自身が「国家神道」を標榜していった。

ともあれ日本列島の歴史風土においては、「神」は存在しない。というかそれは、「気配」として存在する。気配は、この世界の物質や現象それ自体ではないが、それ自体の本質である。神は、この世界の森羅万象の本質として、森羅万象に宿っている。ただそれは、宗教における「霊魂」のように、その中に宿っている「物質」ではなく、そのまわりを覆っている「気配」なのだ。古代人は、そのようにして「神」を見ていた。
古事記の中のイザナミは、火の神を産んだが、火を産んだのではない。火の本質として火に宿っている「神」を産んだ。その神は火の「姿」をしていたが、火という物質それ自体ではなかった。
日本列島において、「神」は「存在」ではない、「姿」なのだ。鳥の姿それ自体が「神」であり、鳥それ自体はたんなる「物質」であって「神」ではない。鳥という物質とぴったり「かみ」合っている「姿」が「神」なのだ。
まあいつの間にか神道の神も、一般のアニミズムと同じように石の中に宿っている「霊魂」が神であるかのようにいわれたりするようになってきたが、もともとは石を覆っている「姿」を神といったのだ。
この生は「姿」であって、「存在」ではない。この生も自分もこの世界も、あるかないかわからない「気配」でしかない。人は何もないところから生まれてきて、何もない「黄泉の国」にかえってゆく。縄文以来の伝統風土であるその死生観や世界観が、「はかなし」や「わび・さび」や「無常」の美意識に昇華されていった。
「姿」の文化……古代の神道が「霊魂」といっても、それはただの「気配」のことであって、永遠に存在し続ける「命のもとになる物質」のことをいったのではない。そんなものがあるはずないし、古代の日本列島の住民がそんなものをイメージしたはずもない。次回は、古事記の書き出しの文章を引用しながら、そのことを検討してみたい。