ネアンデルタール人の社会は女の側に主導権があった、と言ってもピンとこない人がいるらしい。
現代社会の物差しで考えれば、厳しい環境であればこそ体がたくましくて食糧生産(=経済)の能力がある男に主導権があるに決まっているじゃないか、ということになる。
しかし、そうではない。厳しい環境だったからこそ、女の方が優位だったのだ。
女は、死ぬまで我慢ができる。
男は、死ぬ前に我慢ができなくなってしまう。
この違いは、大きい。
現在のように経済制度で動いている社会ならまだまだ男の方が有利かもしれないが、人々が純粋に命のいとなみとして暮らしていた原始社会では、腕力よりも命の強さを持っている方が強かった。
ろくな文明も持たない原始人の身で氷河期の北ヨーロッパに暮らしていたネアンデルタール人の社会は、人がかんたんに死んでゆく社会だった。彼らにとって「強い」とは、死んでゆくことに耐えられることであり、人を生きさせる力のことでもあった。男がいくら狩によって食糧を調達できるからといって、子供を産んでおっぱいを与えながら育て上げる女の直接的な能力にはかなわない。赤ん坊なんかさらにかんたんに死んでいったが、だからこそ女が子供を産み続けなければ、たちまち絶滅してしまう社会だった。
彼らの社会では、男が女に頼って暮らしていたのだ。かんたんに現代人の経済原理だけで推し量っても、きっと間違う。
死に対する耐久力と人を生きさせる能力こそが「強さ」だったのだ。
まあその点でゆけば、現代社会では、人を殺すことのできる能力が「強さ」になっているのかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・
女がなぜ死ぬまで我慢することができるかといえば、生きてある「今ここ」に憑依する能力が男よりも格段に上だからだ。
つまり女は、「今ここ」でこの生を完結してしまえる能力を持っている、ということだ。原始人の暮らしを支えていたのはその能力だったのであって、多くの人類学者たちは「ホモ・サピエンスの<未来に対する計画力>が人類の文化の発展をもたらした」などと言っているのだが、まったくアホどもが何をたわけたことをほざいているのかと思ってしまう。そんな「計画力」などというものは氷河期明けに共同体(国家)が生まれてから幅をきかせてきたひとつの制度的な観念にすぎないのであって、人類の言葉も恋の文化も埋葬の習俗も洞窟に壁画を描くようになったことも、すべては「今ここ」でこの生を完結してしまおうとする心の動きから生まれてきたのだ。原始人が氷河期の北ヨーロッパに住み着くことは、のんきに未来など計画していられるような暮らしではなかった。「今ここ」が勝負だったのだ。
そしてそれはたしかにわれわれの「老後」の問題でもあり、ネアンデルタールは、生まれてから死ぬまでその問題とともに生きていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間は、この生を「今ここ」で完結させようとする。これが、死を知ってしまった生き物の心の動きの、必然的な帰結ではないだろうか。いつ死ぬかわからない身である老後になればもう、誰だってそういうかたちで存在するほかないのではないだろうか。そうしてこれが、人や世界にときめいてゆく心の原点にもなっているのではないだろうか。
すなわち、文化の自給自足。あるかないかわからない外からの情報(=ネットワーク)なんか当てにせず、「今ここ」の場だけでやりくりしてこの生を完結してゆこうとする。そうやって人類の歴史は、それぞれの地域(サークル)独自の言葉や文化を生み出してきた。
ネットワークによって世界がひとつになり、どの地域も同じ言葉や文化になることなどあり得ないし、それが理想になるわけでもない。なぜなら人間は、他の動物以上に「今ここ」を切実に生きようとする存在であり、つまるところネットワークよりも「今ここ」の「あなた」との関係でこの生を完結させてゆこうとしているのだ。
そういうこの生の根源的なかたちから、家族や地域などの文化を自給自足しようとする「サークル」という集団が生まれてくる。
とはいえ、他者にときめくという関係を持たずに自分に閉じていっても家族に閉じていっても、それが根源的な解決になるわけでもないが、この生を「今ここ」で完結できる閉じてゆく場を持たないと人は生きられない。
「今ここ」に閉じてゆくという基礎的な体験がなければ、人間の行動や関係は広がっていかない。
「今ここ」に閉じてゆくという体験が人間性の基礎になっている。そのようにして家族という固有の関係性や言葉の地域性や町独自の文化が生まれてきた。
つまり、人間が無際限に大きな集団をつくることができるのは、広がってゆこうとするネットワークの衝動があるからではなく、どんな大きな集団であろうと「今ここ」で閉じてしまう能力を持っているからなのだ。
閉じようとする衝動こそが、人間の無際限に大きな集団を成り立たせている。
・・・・・・・・・・・・・・・
人の心は、「今ここ」に閉じてゆこうとする。
だからわれわれは、嫌なことや嫌な人間のことがいつまでも忘れられないで、ときに気が狂いそうになったりしなければならない。
未来を計画(イメージ)することが人間性の基礎であるなら、誰もが嫌なことなんかさっさと忘れてしまうことができる。
未来を計画しつつネットワークを称揚してゆく現代社会は、さっさと忘れてしまう人間のもとにほんらいの人間性があって、忘れられない人間は不自然だとか病気だというような倒錯した認識が当たり前のようにまかり通っている。
そんなことをいったって、嫌なことほど忘れられないのが人間の本性であり、この世からそういう心の動きがなくせるはずがない。
人は、人間の自然として、どうしても「今ここ」を味わいつくしてしまおうとする。そのよろこびもあればつらさもある。
そして二本の足で立っていること自体がそもそも悲劇的な姿勢であり、人間の「今ここ」は生命の危機として成り立っており、意識はその「嘆き」として発生する。
人間は、ネットワークだけではすまない存在の仕方をしている。
人は、どうしても「嘆き」に憑依してしまう。「今ここ」に憑依することは、「嘆き」に憑依することでもある。いやな体験や辛い体験をなかったことにしてしまうというわけにいかないし、「嘆き」からカタルシスを汲み上げてゆくのが人間の自然としての生きるいとなみである。
赤ん坊の集団において、泣くという行為はたちまち伝染してしまう。人間の自然は、「嘆き」を共有してゆく。
われわれはふだん、身体のことなんか意識してない。だが、暑いとか寒いとか、痛いとか苦しいとか、空腹だとか、そういうことが起きてくれば、たちまち身体の物性を意識してしまう。意識は、「嘆き」として発生する。われわれの意識生活は、「嘆き」の上に成り立っている。
人間の根源的な存在の仕方は、「今ここ」を「嘆く」ということにある。
意識は、「今ここ」を「嘆く」装置として発生する。
だから原初の人類は、住みにくいところ住みにくいところへと拡散し、とうとう氷河期の北ヨーロッパにも住み着いてしまった。彼ら(ネアンデルタール人)は、そこで、住みにくい地に住み着いているという「嘆き」を共有し、共有していることのカタルシスを汲み上げていった。
人間が「今ここ」でこの生を完結させようとする存在でなかったなら、こんなことは起きてこない。彼らは、南に行けば暖かく住み心地のいい土地があることを知っていた。なぜなら、もとはといえば南からやってきた人たちだからだ。もちろん、そういう情報も入ってきただろう。それでも彼らは、その住みにくい「今ここ」を生きようとしたし、そこでこそ生きてあることのカタルシスを汲み上げてゆく恋心=セックスアピールの文化が生まれてきた。
人間とは、そういう生き物なのだ。ネットワークだけではすまない。
人と人がもっとも深く共有しあえる心の動きは「嘆き」であり、そこからネアンデルタールの抱きしめ合うという生態が生まれてきたわけだが、それだって「今ここ」でこの生を完結させようとする行為だともいえる。
いや、セックスそのものが、自分(の身体)を消去して「今ここ」でこの生を完結させてゆく行為にほかならない。
・・・・・・・・・・・・・・・・
上野千鶴子さんの「女遊び」という著書の表紙は、女性器をデザインしてあるのだとか。彼女は下ネタを語るのが好きらしい。
だからか、上野さんを批判する内田樹先生をはじめとする知識人はたいてい、セックスのことばかり言ってもしょうがないだろう、という語り口になることが多いのだが、それはきっと彼女の思うつぼなのだろう。おまえらにはセックスのことはわからない、と。
そりゃあたしかに、人間を語るのにセックスのことは避けられない。でも、上野さんの語る下ネタなんか、下品で薄っぺらで野暮ったいだけなんだよね。僕は、そのことが気に入らないのだ。
下ネタを語りたがるということはつまり、勘ぐれば、男に受けたいということであり、私は男に不自由しているようなブスじゃない、ということが言いたいのかもしれない。まあ、東大教授が下ネタを語れば、男にも女にも受けるのだろうね。
でも上野さん、やっぱりあなたの下ネタは薄っぺらだよ。
僕なんかただのスケベおやじだけど、それでも人間がセックスすることは悲劇的なことだなあという思いはないわけではない。猿とは違う。なにしろ年中発情しているのだから。
セックスのときの女のあえぎ声は、なぜあんなにも切なげで悲しげで苦しげなのだろう。それはつまり、「今ここ」でこの生を完結させてゆくことはこの生の「嘆き」を昇華してゆくことの上に成り立っている、ということだろうか。
だからときに「死ぬう」と言ったりする。うれしいのかつらいのかわからないけど、何はともあれ女とは、死ぬまで嘆き続け我慢できる生き物らしい。
上野さん、「幸せな老後」などという野暮ったいことばかり言うなよ。「幸せな老後」などというものは存在しない。老後とは、不幸(=嘆き)を生きることであり、われわれはそこから生きてあることのカタルシスを汲み上げてゆくことができるかという問題を突きつけられるのだ。
なぜ女が男ほど死ぬことを怖がらないかといえば、「嘆き」そのものを生きることができるからかもしれない。
老後とは、人間の根源に遡行してゆくことだ。僕が読んだ「おひとりさまの老後」には、そういう視線がまるで感じられなかった。田舎っぺだなあ……と思うばかりでさ。
あなたの思想が「おまんこ」を称揚してゆくことにあるのなら、生きてあることの「嘆き」こそ高度に洗練されたかたちで語ることができてしかるべきなんじゃないの。田舎っぺ丸出しでグルメだの幸せだのを語っているひまなんかないだろう。
あなたには、女稼業のしんどさはわからない。あなたは、セックスも生きることも、その過剰な自意識が邪魔してちゃんと味わい尽くしていない。
男に捨てられておいおい泣いているバカなヤンキーのおねえちゃんの方が、ずっとそのことをよくわかっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/