猿にとって直立二足歩行を常態化することはけっしてむずかしい技術ではないが、絶対にそうしようとしない。
この世にたくさんの猿がいる中で、人間だけがそうしてしまった。だから研究者たちは、そうしようとする「欲望=目的」があったとか、それが可能な技術や身体骨格を獲得していったからだとか、まあそのような目的論や技術論で語っているのだが、どんな猿にも直立二足歩行を常態化させようとする「目的」は発生しないし、また、どんな猿でもそんな「技術」はすでに持っているのだ。
猿にとって直立二足歩行することなんかほんとに簡単なことなのに、どんな猿もそれを常態化させようとはしない。猿には、そういう「目的」は発生しない。なぜなら、常態化するまいという「目的」を根源において抱えているからだ。
人間と猿の境界はそれほどあいまいであると同時に、それほど決定的でもある。
猿であるという事実を振り切らないと、それは実現しない。
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日本で本格的に直立二足歩行の起源を論じた本を、僕はほとんど知らない。
あるのかもしれないが、あまり興味はない。これは決定的だ、という噂は、聞いたことがない。人類学関係の本に書いてある世界中の情報を見渡しても、信用できるものなんかひとつもない。
「アクア説」といってもねえ、苦笑いするだけだし。
というか、世界中のすべての研究者が苦笑いされることを覚悟でこの仮説に挑んでいるのかも知れず、そこのところでは僕もまた同じ立ち位置でこれを書いている。
僕にとってこのモチーフの探求は、人類学というよりも、「人間とは何か」ということについての「批評」をする行為だという思いのほうが強い。
世界中の古人類学研究者に対して、「何考えているんだろう」と苦笑いしている。ひとまず文科系の人間として、科学なんてその程度のものかよ、とも思う。
というか、現在の古人類学研究者たちは、本格的な科学的思考ができていない、ということかもしれない。
あんがい、僕のいう「それは<何かのはずみ>で起きた」ということのほうが、現在の科学的思考の流れに沿っているのかもしれないんだよ。ビッグ・バンがどうとかといっているご時世であるわけだし。
「進化」という言葉はあまり好きではない。人類史における直立二足歩行の発生は、ひとつのパラドックスだと思っている。それは、「進化」ではなく、「事件」なのだ。「進化」という人類学のモチーフではなく、「事件」という「批評(クリティーク)」の対象なのだ。
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先日、ジュンク堂をのぞいてみて、直立二足歩行に関する最近の研究者たちの意識の動向についての情報が得られる本を探したところ、クレイグ・スタンフォードという人の「直立歩行(青土社)」という本が見つかった。
著者は、南カリフォルニア大学人類学・生物学部の教授。まあ、現在の世界でもっとも信用のおける直立二足歩行研究者の一人かもしれないが、起源仮説の発想はいまいちだった。
まあ情報だけはありがたくいただいて、ひとまずこの本を主たるテキストとして書き進めてみようと思う。
とりあえず、この先生の起源仮説を紹介しておこうか。
まず、チンパンジーが木の実の採集などの場面でときどき直立二足歩行の姿勢をとることはよく知られている。
そこでこの先生はこういう。
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 この場面が人類史の初期にどのように繰り広げられたかを考えるには、たいした想像力は要らない。同じような森だし、似たような類人猿だ。だが類人猿は、最後に手をつけた数フィート先にある小さな木をまた見つけると、直立してぎこちなく森の地面を三歩進み、座り込んで、新しい場所でまたものを食べる。
 これは、ヒト科が完全な直立姿勢で何キロも歩くことほど重要とは思えないかもしれないが、それでも二足歩行だ。地上でも木の上でも、こうした行動が100万年にわたって何百万回も繰り返されれば、祖先には利用できなかった食料資源を利用できる類人猿の系統が自然選択で有利になる。このような利点は、類人猿の解剖学的構造がより長く、より安定を保ちながらまっすぐ立っている能力を向上させるように修正されて、それが自然選択で選ばれてきた結果として得られてきたのかもしれない。こうした幸運な類人猿は自分の遺伝子、つまり直立姿勢へのゆっくりした着実な移行への背後にある遺伝子を、後代に受け継がせたことだろう。
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まあ良識的な意見ではあるが、凡庸だし、そのていどの論理ですむならこの問題はとっくに解決している、ともいいたい。
じっさい現在のチンパンジーは、こういうことを何百万年、もしかしたら1千万年以上続けてきて、まだ四足歩行しているのだし、身体骨格の変化もほとんどない。
最近発見された700万年前の人類の骨は、すでに直立二足歩行が常態化していたとしか思えないような変化が現れているのだ。
この先生のいうようなことを百万年続けていたって骨格は変化しないのである。なぜなら、類人猿は、すでに1千万年前からこのようなことを簡単にできる骨格を持っているからだ。骨格や遺伝子なんか変わらなくても、こんなことは猿なら簡単にできる。
直立二足歩行が常態化して、はじめて骨格や遺伝子が変わってくるのだ。遺伝子なんか、類人猿も人間もたいして変わりない。
直立二足歩行くらい猿だってできる。その姿勢が「常態化する」ということは能力の問題ではないのである。
このへんの思考が、目的論や能力論で語りたがるアメリカ人および現代人の限界かも知れない。
骨格が変わったから直立二足歩行が常態化したのではなく、常態化したから骨格が変わってきたのだ。
こんなごくごく初歩的な論理の矛盾を、どうしてプロフェッショナルの立場にいて気づかないのか、僕にはまったく理解できない。
チンパンジーはなぜ直立二足歩行を常態化しないのか。まず、そのことが説明されなければならない。それは、チンパンジーの可能性においてではなく、「不可能性」において説明されなければならない。
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オウムのくちばしが大きくて硬くて曲がった形になってきたのは、それだけ硬い木の実しか食えない環境で苦労してきたからだろう。
立ち上がって木の実を採取する機会に恵まれていれば、その反復運動の蓄積によって直立二足歩行に移行できるのか。そんな簡単なことじゃないだろう。そんなことを何百万回繰り返しても、猿は直立二足歩行を常態化しようとしないのだ。それは、チンパンジーのままでいても間に合うことなのである。そこのところ、この先生は何もわかっていない。
それを常態化するほかない状況に追いつめられたから、常態化していったのだ。そういう「苦労」があったのですよ。つまりそのとき、そうやって猿であることを捨てたのだ。
イスラエルの猿が生死の境をさまよったあげくに生還していきなり直立二足歩行をはじめたとき、彼の体力は最低限になっていたはずだ。つまり直立二足歩行は体力がそんな状態でも可能なのであり、体力がそんな状態だったからその姿勢が体になじんだともいえる。
直立二足歩行に、身体的な「進化」なんか必要ないのだ。
チンパンジーのナックルウォーキングに対して、人間の直立二足歩行は半分のエネルギー消費ですむ、といわれている。二本の足で立って歩くことくらい、体力のない子供だってできる、ということだ。
だから、あるときその姿勢は、たちまち群れ全体に広まっていった。
そうするほかない事情の「苦労」があるのなら、たちまちその姿勢は群れ全体に広まってゆく。
問題は、原初の人類だけが体験したその特殊な「苦労」とはなんだったのかということを探り当てることにある。

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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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