感想・2018年12月19日

<女の中の処女性>
今、新しい電子書籍を三冊出そうと、あれこれ推敲したり書き足したりしているのだけれど、この作業がなかなか進まず、いつのまにかブログの更新のことも忘れてしまっていました。
なんでもやりっぱなしの性分だから、こういう腰を据えた地道な作業は苦手です。
このところは「女性論」をいじっているのだけれど、女の中の処女性が主題です。それは、日本列島の伝統文化の問題でもあり、たとえば、憲法第九条は処女性の上に成り立っている。
憲法第九条なんか国が滅びることを覚悟しないと成り立たないのであり、その覚悟とともにこの国の戦後がはじまったのだし、その覚悟こそがまさにこの国の伝統文化であり、人類普遍の「処女性」にほかならない。
ずるいようだけど。憲法第九条の是非はよくわかりません。しかしそれが戦後70年守られてきたという事実は、日本列島の伝統の精神風土として肯定します。
今どきの右翼は、そういう戦後史のスタートの状況も処女性も否定しているわけだが、それは、この国の伝統文化のことが何もわかっていないということです。
この世の中で「もう死んでもいい」という勢いと覚悟をもっとも深く豊かにそなえているのは処女=思春期の少女であり、日本人の伝統的な無意識はそこから学びつつ「切腹」とか「神風特攻隊」という習俗を生み出したのだし、「水に流す」という「みそぎ」の文化だって「処女性」が水源です。
天皇は処女性の象徴として祀り上げられてきたのであり、起源としての天皇は舞の名手としての「巫女=処女」だった、ということは、ここ数年ずっと考えてきたことです。
生物進化における雌雄の発生は、処女と童貞がセックスしたことが始まりだったのですよ。処女は、男にセックスをやらせてあげる本能を持っている。そうでなければ雌雄の生物世界は成り立たない。
処女にとって男にセックスをやらせて上げることは「もう死んでもいい」と覚悟することであり、覚悟することの恍惚がある。
生物の雌雄の世界は、「滅びの美学」の上に成り立っている。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことも地球の隅々まで拡散していったことも、その本質は「滅びの美学」ですよ。
終戦直後の社会の処女性……この問題をちゃんと考えたいという思いがあります。そしてそれは、日本文化の伝統の処女性について考えることでもあります。
あの大震災の直後にひとまずみんなが他愛なくときめき合いながら助け合っていったことだって、処女性の問題です。
助け合うとは、たがいに「もう死んでもいい」と覚悟しながら相手を生かそうとすることです。その「もう死んでもいい」という覚悟=勢いが、心を活性化させる。
戦後の困窮に人々が耐えられたのはそういう覚悟=勢いがあったからであって、必死に生き延びようと競争し盛り上がっていったからではない。
そりゃあ、戦争に負けた上に満足に食うことすらできない時代だったのだもの、元気であったはずがないし、だれもが生き延びようと目が血走っていたのでもない。とにかく、大震災直後の被災地と同じだったのであり、それは、日本列島の伝統がよみがえったような状況だった。
人々は食い物と同じかそれ以上に心を慰める「娯楽」を求めたのだし、戦争で死んでいった多くの者たちのことを思えば、生き延びようとあくせくするわけにもいかなかった。
生き延びようとすることが人間の本能・本性ではない、ということが証明されている時代だった。そんな欲望が人類に進化をもたらしたのではない。
人類は、生き延びるために日本の足で立ち上がったのでも、地球の隅々まで拡散していったのでも、火を使い始めたのでも、言葉や石器などの道具を生み出していったのでもない。
生物進化だって、「生き延びるため」という問題設定では解けないのです。
現代人はその問題設定をあたりまえのように信じてしまっているから、一部の功利的現実主義的新自由主義者たちにしてやられるのだし、だれもがそういう問題設定の社会システムに踊らされて思考し行動してしまっている。養老孟や内田樹上野千鶴子らがいくらもっともらしいことをいったって、彼らだって時代に踊らされているただの功利的現実主義的新自由主義者に過ぎない。その「生き延びる=生命賛歌」という問題設定そのものが違うのです。「それは違う」というのが年寄りの役目なのに、先頭になって時代に踊らされてしまっている。
生きものの命のはたらきは、生き延びるためのシステムであるのではない。生きものは死んだってかまわないのだし、国も会社も家族も滅びたってかまわないのです。その滅びたってかまわないという覚悟=勢いが国も会社も家族も個人の命も、結果的に生かしてのであり、われわれ日本人はあのひどい敗戦や大震災や原発事故によって身を持って体験したはずなのに、なぜだかいまだにそれが骨身にしみていない。いまだにおためごかしの善人ぶった生命賛歌にたぶらかされてしまっている。
いまだに、というより、まあ平和で豊かな社会だからそういうおためごかしがのさばる、ということでしょうか。
しかしどんな世の中であれ、生きられない弱い存在であるところの年寄りも赤ん坊も処女も病人も障害者も、そんな安っぽい生命賛歌で生きているわけではない。
そしてこのブログは、いつだって何をモチーフにしようと、とにかくそういうことが言いたいわけです。

蛇足の宣伝です

キンドル」から電子書籍を出版しました。
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』
初音ミクの日本文化論』
それぞれ上巻・下巻と前編・後編の計4冊で、一冊の分量が原稿用紙250枚から300枚くらいです。
このブログで書いたものをかなり大幅に加筆修正した結果、倍くらいの量になってしまいました。
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』は、直立二足歩行の起源から人類拡散そしてネアンデルタール人の登場までの歴史を通して現在的な「人間とは何か」という問題について考えたもので、このモチーフならまだまだ書きたいことはたくさんあるのだけれど、いちおう基礎的なことだけは提出できたかなと思っています。
初音ミクの日本文化論』は、現在の「かわいい」の文化のルーツとしての日本文化の伝統について考えてみました。
値段は、
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』上巻……99円
『試論・ネアンデルタール人はほんとうに滅んだのか』下巻……250円
初音ミクの日本文化論』前編……250円
初音ミクの日本文化論』後編……250円
です。