感想・2018年7月22日

<邂逅>
東日本大震災は、1000年に一度の大津波に加えて世界最大級の原発事故が重なり、この災害を境にして日本人が変わるだろうといわれたりしたが、7年たって、けっきょくそんなこともなかったらしい。
良くも悪くも、相も変わらず日本人は日本人で、まあ「大災害だった」という認識だけが残った。
おととしは『シン・ゴジラ』とか『君の名は。』とかの映画が「3・11を総括している」という評判で大ヒットしたが、人々がそういうたぐいの映画を見たがっているタイミングだったのだろうか。
日本列島は、昔から地震や台風などの災害がいつも起きている地域で、伝統的に、災害に遭遇したあとの心の始末の仕方はちゃんと心得ている。その不幸を受け入れることができる。
大震災の記憶が風化したとかといわれているが、もともと忘れっぽい民族だし、災害の不幸に対して従順な歴史風土でもある。
ただ、東日本大震災原発事故に対しては、あれは未曽有の大災害だからそれによって日本人の何が変わったかということをきちんと総括しなければいけない、という強迫観念があるだけではないだろうか。
何が変わったかではない。何も変わってはいないのだ。
あの災害と遭遇したことによって人々の心は華やいでいった。ときめき合い助け合っていった。まあ、歴史的に災害慣れしている、ということだろうか。
そのとき世界の人々は日本人がこんな事態になっても暴動を起こしたりエゴイスティックな行動に走ったりしないことに感心したらしいが、それは、倫理観や道徳観の問題ではない。ただもう心が華やいでいっただけなのだ。「嘆く」というかたちで華やいでいったのだ。
「世界の終わり」こそ人の心に華やぎをもたらす。「世界の終わり」は美しい。そして「廃墟」も美しい。
人は「世界の終わり」から生きはじめる。
それはもう、そうなのであり、あの大震災に対する倫理道徳的な総括も展望も必要ない。それは、ひとつの邂逅でもあった。そして災害は、きっとすぐまたやってくる。