感想・2018年7月18日

ネトウヨと批評家>


批評とは何かということはよくわからないのだけれど、今どきはネット社会で、誰もが批評家になっているとか一億総批評家時代などともいわれている。
ネトウヨだって、まあ批評家なのだ。彼らは、この世でもっとも俗悪な批評行為に血道を上げている。
批評にもいろいろあって、社会批評、政治批評、経済批評、文学批評、芸術批評、サブカルチャー批評等々、そして批評と評論は、ちょっと違う。
評論はきちんとした学問的な研究分析を土台にしているが、その意味で批評は根無し草であり、ときに評論に対して異議申し立てをしたりする。
批評家は、裸一貫の根無し草として勝負する。評論家は努力すればなれるけど、ほんとうの批評家はそうはいかない。この世の中には生まれつきの批評家というタイプの人間がいて、多数派ではない、どちらかというと絶滅危惧種のようなタイプだろう。
批評家の武器は、直感にある。その鋭さやセンスは、努力して身に付くものではない。
というわけで、ネトウヨだって立派に批評家であり、批評家はもともと臆病であると同時に傲慢な人種でもある。
この世の中には、魅力的な批評家もいれば、いけ好かない批評家もいるし、ほんとうは誰もが批評家たらんとする思いがある。
今どきの大衆は、大衆であることを自覚しつつ大衆を批判し、そのうえで「自分だけは違う」とも思っている。つまり、自分は批評家である、と。
人はみずからの過剰な自意識を削ぎ落しながら批評家になり、また、自意識過剰になってゆきながら批評家であることを自覚したりする。
たぶん、この世のほんものの批評家なんかほんの少しなのだろうが、誰もが心の奥ではすでに批評家であるつもりでいる。だから、誰もが批評文なんか必要としていない。
たぶん、作家になるより批評家になることのほうがずっと困難なことにちがいないのだが、誰もがすでに批評家のつもりでいるから、批評家の存在意義は限りなく薄い。