ファーストコンタクト・初音ミクの日本文化論(14)

初音ミクは、ひとまず現在のサブカルチャーの分野で一定の認知を得た感がある。テレビコマーシャルに登場したりして、日本人のほとんどがすでにその名を知っている。そこで、これが一過性のブームで終わるのか、それともひとつのジャンルとしてこれから先まで定着してゆくのかのひとつの正念場に立っているらしい。
まあ僕としては、能や歌舞伎や人形浄瑠璃のような伝統芸能として残っていってもおかしくない、と思っている。もしかしたら人形浄瑠璃を現在のテクノロジーで表現すればこうなる、ということかもしれない。
ピノキオじゃないが、人形があるとき人間のように動き出すという想像は、世界中で歴史的に共有されてきたことです。それは、人間には「人間と非人間」すなわち「生と死」をつなげたいという願いがあるということだし、誰だってふと心が「異次元の世界」に入り込んでしまうことはあるわけで、まあそれが知性や感性のはたらきの根源になっている。
「異次元の世界」に対する親密な感慨、それが人形浄瑠璃を生み出し、初音ミクを生み出した。
われわれが人として生きてあることは、心がふと異次元の世界に入り込んでしまう動きを生み出すような「かなしみ」とともにある、ということです。
初音ミクが登場する前から女性の電子音のソフトは出回っていたし、それに合わせた理想の美女のキャラクターをつくって売り出そうとした企業もあったのだが、これは大コケした。「それはあくまでロリータキャラでなければならない」ということと「人間のようであって人間であってはならない」という原則がわかっていなかったからです。その企業は、人間の代用品のようにつくった。
そういうことではないのですよね。
それが「かわいい」ということは、それが異次元的なアイコン(=偶像)であるということであり、「ロリータ=処女=思春期の少女」こそもっとも異次元的な存在である、という認識がすでに共有されているのです。
「ロリータ=処女=思春期の少女」もまた人間と人形のはざまを生きる存在であり、人類史の普遍的な「美」あるいは「魂の純潔」のアイコン(=偶像)なのです。

初音ミクの音声とキャラクターは、ネット社会に登場していきなりブームになった。その音声ソフトを使えば、誰もが作詞作曲して初音ミクに歌わせ、ひとつの作品として発表することができた。
これは、それまで続いてきたマンガやアニメやファッションやロリータ趣味等の「かわいい」の文化が基礎にあったからだろうが、そのとき初音ミクはひとまずみんなに認知されているアイドルであり、そんなアイドルに一般人の誰もが自分の作った曲を歌わせ公の場に発表するということはありえないことだった。たとえばAKB等の既成のアイドルを相手にそれができるのは、音楽業界で活動しているかぎられた人たちだけにしかできないことだった。
なのにそのソフトは、「アイドルに歌わせる」ということをすべての人に開放した。作詞作曲できなくても、既成の歌謡曲や童謡を歌わせることなら、なおかんたんにできた。そうやってみんなが初音ミクの音声とキャラクターという玩具で遊ぶ場がネット社会に生まれ、大いに盛り上がっていった。
ただ、最初のころに投稿されていたオリジナル曲は、たとえば「ハジメテノオト」とか「みんなみくみくにしてあげる」のような「初音ミクのキャラクターを表現する」ということに限られている傾向があったのだが、それでも大きな盛り上がりになった。それは、ただ遊び場が生まれたということだけでなく、初音ミクというキャラクターそのものに対する大きな関心があった、ということを意味する。
そのとき彼らは、初音ミクこそ究極のロリータキャラではないか、と気づいた。
それは、たんなる時代のファッションというだけではすまない、人類史の伝統の問題なのです。

最初のうちの世界各国は、日本人がまた変なことをやりはじめたというような反応しかなかったのでしょう。なぜならヨーロッパにはロリータ趣味に対する大きなタブーがあるから、ちょっと怖いなあ、という感じもあったはずです。
ヨーロッパにそういうタブーがあるということは、近親相姦をはじめとしてそうした犯罪的なハラスメントがたくさん起きていることの証しでもあり、じつはヨーロッパ人のほうがもっとロリータ趣味の根は深い。
それは、西洋の女たちのもっとも大きなトラウマのひとつです。社会そのものが、そういうトラウマを負っている。
ヨーロッパ人の体は、ネアンデルタール人以来の伝統で、早く成長して早く老化してゆく。だから、子供と大人のあいだのロリータである期間がものすごく短く貴重です。中学生になればほとんどがもう大人の女の体になっているし、とうぜん心もそれに合わせて急激に大人びてゆく。だから、男たちのロリータに対する視線は切実です。
日本人の場合は、中学から高校までの期間をゆっくり成長してゆくし、その間、精神的にも大人と子供のあいだのあいまいな心のままで漂っていられる文化風土がある。
「あいまい・幽玄」の文化、「あはれ・はかなし」の文化、「わび・さび」の文化、日本列島の文化の伝統というか世界観や生命観の伝統は、思春期の少女のそれにリードされて洗練発達してきたのです。
それに対して宗教が支配する国々では、あいまいなものなどあってはならない。すべては「神(ゴッド」によって決定されている。だから男たちには、思春期の一瞬の光芒に対する感動と同時に、そのあいまいな世界観や生命観を支配してしまいたいという衝動があるのかもしれない。それは、神に許されていることでもある。だから、その衝動が抑えられなくなってしまう。
また、西洋の夫婦においてはセックスが義務のようになっていて、すでに老化が進んでいる妻とのセックスの重荷から解放されたいという衝動が、まだ大人になりきれない少女の体に向かうのかもしれない。世の東西を問わずそれは、「回春」の特効薬であるわけで。
人間と人形のはざま、すなわち生と死のはざま、この世とあの世のはざま……思春期の少女は世界中どこでもそういう場に立っている存在であり、そういう場に対する関心は人が人であるかぎり世界中の誰もが抱いているし、初音ミクによって日本列島の若者がまず最初に気づかされた。
欧米は宗教の壁があるからどうしてもいったんは立ち止まってしまうし、ちゃんとした初音ミクの造形をひとつの免罪符として提出されることによって、ようやくそれに関心を寄せてゆくことになった。まあ、欧米の思春期の少女たちがそれを支持するようになってくれば、男たちも安心してそれを美を表現し鑑賞するひとつの文化運動として参加してゆくことができるようになる。
日本列島には、ロリータ趣味のタブーはない。だから、いきなり初音ミクのブームが起きたのです。だんだん盛り上がっていったのではない。それは、欧米で今起こっていることです。

で、初音ミクの最初のブームが起きたとき、人々は初音ミクを世の中のアイドルの代用として祀り上げていったかというと、そうではなく、アイドルとは別次元のアイドルであることをちゃんと意識していたし、そこにこそ祀り上げる理由があった。
その代表曲である『ハジメテノオト』では、こう歌っている。

はじめての言葉は何でしたか
あなたのはじめての言葉は
わたしは言葉っていえない
だからこうしてうたっています


やがて日が過ぎ、年が過ぎ
世界が色あせても
あなたがくれる灯りさえあれば
わたしは、こうしてうたうから


ちゃんとアイドルを超えたアイドルであることを意識しているし、人が生きてあることのかなしみに献身しようとしている。
もうひとつの『みんなみくみくにしてあげる』という曲でも、コンセプトというかその思想においてはそう変わりはない。

みくみくにしてあげる
まだまだ私、頑張るから
口ずさんでくれる、夢中でいてくれる
君のこと、みくみくにしてあげる
世界中の誰より
大好きを伝えたい、だからもっと私に歌わせてね


初音ミクは、恋愛の代用品として登場してきたのではない。初音ミクは、人と人が他愛なくときめき合う世界を夢見て歌っていたのであり、その夢をみんなして共有していったのです。
他愛ないといえばまったく他愛ない思想で、だからマッカーサーに「日本人は13歳から成長できない」といわれなければならないのだけれど、それが日本的なロリータ趣味であって、べつに少女とセックスをしたいとか、そういうことではない。もっとのほほんと世界の平和や人類の理想を夢見ている。そういうかたちで初音ミクのブームがはじまったのです。
生き延びたいという欲望をたぎらせてゆくなら、人と人は競い合い闘い合わねばならない。
しかし、生と死のはざまに立って「もう死んでもいい」という「かなしみ」を共有してゆくなら、ただもう誰もが他愛なくときめき合う世界が夢見ているだけではないでしょうか。日本人には、そういう関係および集団性に対する遠い憧れがある。それが実現できているか否かは別として、とにかくそのとき彼らはそういう「かなしみ=喪失感」を共有していた。
まあこの国では、天皇自身がそういう思想の持ち主であり、そこから生きはじめるのが日本列島の伝統です。そしてそれは、人類史の原初のかたちであると同時に、究極の未来のかたちでもある。
たしかに日本人が変な文化運動をはじめたのだけれど、そこには「かなしみ=喪失感」が共有されている。
人はその本質において生きられない弱い生きものである、という認識が共有されていなければときめき合ったり助け合ったりする集団にはなれない。それは、生き延びることの正義(=価値)のもとに生き延びるための規範をおしつけてくる国家制度や宗教に対するカウンターカルチャーになっている。そういう民衆自身の非宗教的非制度的な文化運動を持っているところに日本列島の伝統があり、だから宗教に覆われた国からは生まれて来ないような意表を突く変な文化運動が生まれてくるのだし、そうした国々でも若者たちは国家制度や宗教に対するカウンターカルチャーを待ち望んでいる。とくに、こんなふうに国家制度や宗教や近代合理主義のシステムが高度に発達した息苦しい時代においては。
「かわいい」の文化とは、「すべてのことはどうでもいいじゃないか」すなわち「すべてのことは許されている」という混沌を生きる文化であり、はじめて初音ミクのブームが起きてきたときにはそういう感慨が共有されていた。
国家制度も宗教もどうでもいい、と思えば、人類の文化はさらに豊かな展開で花開いてゆくことができる。世界の人たちから「奇異」とも「クール」とも受け止められている「かわいい」の文化は、そういう可能性を発信しているのではないでしょうか。だから初音ミクの曲だってこれからもいろんなふうにいくらでも生まれてくる余地があるはずです。