女神のかなしみ・初音ミクの日本文化論(8)

この国を訪れた外国人からしたら、女子中高生のセーラー服なんか、みんな「セーラームーン」のコスプレ・ファッションに見えてしまったりするかもしれない。けっこう大胆なミニスカートだし。
まあ渋谷・原宿を歩けばコスプレ・ファッションの少女はいくらでもいて、この国はそういう奇異な装いにも寛容なところがある。何しろついこのあいだまで「ヤマンバ・ギャル」が闊歩していたのだし、何より歴史的に「異形」の文化の伝統を持っている。
ヤマンバ・ギャル」は山姥に身をやつした「神」の姿だった、ともいえる。それ以前の学生がエリートだった時代にはわざとぼろぼろの格好をした「バンカラ学性」というのがいたし、一種の貴種流離譚で、そういう「身をやつす」という伝統がある。
いまや一流ブランドになっている「コム・デ・ギャルソン」だって、最初はわざと破れ目をつくったり左右非対称にしたりして「プア・ルック」と呼ばれていた。
日本列島は、もともと支配者階級の文化と民衆社会の文化が分かれていて、そうしたカウンターカルチャーがつねに機能してきたのであり、その伝統から「かわいい」の文化が登場してきた。そしてそれは、「現実存在のこの世界」に対する「異次元の非存在の他界」がつねに意識されてきた、ということでもある。で、その後者の世界は、宗教の問題ではなく、あくまで非宗教的な「意識」のはたらきの「実存」の場の問題であり、ようするに支配者階級と民衆社会では世界観や生命観が反対だった、ということです。前者はこの生やこの世界に執着し、後者はこの生やこの世界に執着から離れて心が「異次元の非存在の世界」に遊ぶことのカタルシス汲み上げて生きようとしてきた。
中世には「一期は夢よ、ただ狂え」というようなことが語られたりしたが、それがこの国の民衆社会の伝統であり生きる作法だった。であれば現代の「ヤマンバ・ギャル」たちはこの伝統のもっとも本格的な継承者だったのであり、彼女らこそ、近ごろの街の風俗・風景として「コスプレ・ファッション」や「ロリータ・ファッション」等々をはじめとして「かわいい」の文化が花盛りになっている状況が生まれてくるためのパイオニアだった。

今や「かわいい」の文化は世界中に広がっていて、そろそろ世界が追い付いてきてもいいはずなのに、不思議なことに今なおこの国の独占状態にある。
外国がこの文化に追いつき追い越すことは、自動車や家電製品のつくり方をまねるというようなわけにはいかないらしい。
外国人が和食をつくってもいまだにとんちんかんであるように、伝統の問題であり世界観や生命観の問題だから、そういう意識が変わらなければ追いついてくることは難しい。
日本人でさえ、外国で和食をつくって何世代か経れば、その国風のものに変質していってしまう。
自動車や家電製品には国境はないが、伝統は何処の国でも同じというわけにはいかないし、どこの国も伝統から自由になることは難しい。
アメリカ人だろうと朝鮮人だろうと、日本列島に住み着いて何世代か経てば、日本人と同じになってしまう。
たぶんこの先も、アメリカの「かわいい」の文化と日本列島の「かわいい」の文化は同じではないし、アメリカで「かわいい」の文化が流行れば、さらに日本列島のそれに対する関心が高まる。
寿司が好きなアメリカ人が日本列島にきて、「本物の寿司というのはこういうものだったのか」と感激している。
日本人はもう、縄文時代から「かわいい」ということを意識していたのかもしれない。
縄文人は子供のおもちゃをつくるのが大好きだったし、イノシシの赤ん坊の「ウリ坊」を土器としてつくったりしていた。
もともと四方を海に囲まれた島国だから他国・異民族との軋轢もなく、縄文人はもう政治経済とは無縁のことばかりしていた。どうでもいいものに耽溺するということ、「かわいい」の文化は、ようするにそういう感覚なのです。
火焔土器などは、生活用品としてはまったく無駄なつくりだから、研究者たちは宗教祭祀の道具だった、などというが、そうじゃない、ただ「かわいい」ものをつくりたかっただけなのです。江戸時代の町娘はじゃらじゃらとたくさんの髪飾りをつけていたし、今どきのコギャルはカバンにたくさんのマスコット人形をくっつけている。それだって火焔土器の伝統でしょう。
こんな伝統が外国にもあるのでしょうか。

「かわいい」の文化が「伝統」であるということは、つまるところ「言葉」を取り扱う作法とともに生まれてきた、ということでしょうか。
まず「かわいい」という言葉の語源から考えてみることにします。
もともと「かわいい」とか「愛らしい」というようなニュアンスでは、「かなし」という言葉が当てられていた。つまり、「かなし」に「悲しい」という意味はなった。「かわいい」ものは「はかない」存在だったから、「悲しい」という意味に変質してきたのでしょうか。ともあれ「喪失感」が下敷きになっている言葉なのだから、「哀切」というような感慨を大事にする風土でなければ「かわいい」の文化は育ってこない。
で、「かはゆし」という言葉が文献にあらわれるのは鎌倉時代からのことで、やっぱり「かわいそう」とか「しのびない」というような意味だったらしい。
しかし、鎌倉時代に生まれてきた言葉かというと、そうともいえない。おそらく民衆のあいだに流布していただけで、大和朝廷内では使われていなかったのでしょう。あるいは、関東・東北の「あずまことば」だったのかもしれない。あずまことばは、鎌倉時代の武士の台頭とともに広く流布されてゆくようになった。
やまとことばは一音一義、一音一音に意味がこめられています。
「かはゆし」の「か」は「カッとなる」とか「噛(か)む」の「か」で、「気づく」とか「納得する」というような意味をあらわす音声。
「は」は「はかなし」の「は」、「空虚」「空間」をあらわす。
「ゆ」は「湯」の「ゆ」。「湯」は「だんだん温まってゆく水」のこと、「変化」「過程」をあらわす。
「し」は、形容詞のしっぽの音。あるいは、深くしみじみとした感慨をあらわす。「高し」といえば主観的な感慨で、「高き」は客観的なさま。
「かはゆし」とは、「はかなさがだんだん深まってゆく感慨」。あるいは「消失感」。あるいは「消失に対する哀惜」。
ただ「かわいい」といっても、その底には、人は「世界の終わり」として生きはじめ「世界の終わり」として死んでゆくという、日本人の伝統的な世界観や生命観が流れている。
「世界の終わり」のそのさきは、すべてが輝いている。それが「かわいい」ということ。
今どきのギャルがただ他愛なく「かわいい」とつぶやいているようになるまでには、長い長い「喪失感」や「哀惜感」の歴史の蓄積がある。その蓄積の上に、現在の奇想天外・変幻自在の「かわいい」の文化の表現が生まれているのです。

「かはゆし」は「哀惜」をあらわす言葉だった。
「世界の終わり」だなんてなんと大げさな、といわれそうだが、「世界の終わり」の感慨は人間なら誰の心の中に息づいているのであり、波乱万丈を生きてきた人や生死の境をさまようような苦悩や病苦にさいなまれてきた人が「自分こそはそれを知っている」などと自慢するようなものではないのです。
だいたい「自分」とか「この生」に対する執着が強すぎるからそうやって気が狂うほど苦しまねばならないのであり、そういう人こそ「哀惜」とか「喪失感を抱きすくめる」ということを体験できるだけの知性や感性を持ってないのであり、世界の輝きに他愛なくときめいているバカなコギャルのほうがずっと深くそういうことを知っていたりするわけですよ。
そんな自慢は、お騒がせなボケ老人の認知症と同じなのですよ。
また、微笑みながら安らかに死んでゆける庶民の無知なおじいさんやおばあさんは悩みはしないけど、彼らこそ誰よりも深く「世界の終わりの喪失感を抱きすくめて」いるのであり、それなしにそういう死に方ができるはずないじゃないですか。
死ぬときはみんなしみじみと「世界の終わり」を抱きすくめていますよ。少なくとも日本人はみなそうやって死んでゆくのであり、「天国」や「極楽浄土」や「生まれ変わり」を舌なめずりしながら待ち望んでいるのではない。
「消えてゆく」ことのカタルシス、それは「非存在=異次元の世界」に超出してゆくということです。それが「かはゆし」という言葉で、その先には世界の輝きに他愛なくときめいてゆく体験があるわけで、そういう歴史のなりゆきの必然的な帰結として、現在のバカなコギャルの「かわいい」という言葉になっているのです。

初音ミクの声だって、人間離れした電子音でありながら、人間以上に「かなしみ」の気配をたたえている。
彼女は人間であることも「存在」することも禁じられた存在であり、それはもっとも未来的女神的な存在であると同時に、人間が人間になる前のもっとも原初的な存在でもある。
原初の「黄泉の国」からやってきた女神、ということでしょうか。
「黄泉の国」から響いてくる声、「黄泉の国」のかなしみ。まあ初音ミクの声には、「世界の終わり」の「かなしみ」がこめられている。
古事記』は、人間はかつて神であった、という物語です。天皇の祖先はアマテラスだった、という。そういう伝統があるから、初音ミクに思い入れしてゆくことができたのかもしれない。
まあ世界中どこでも「神」とは原初の存在であるわけだが、日本列島ではその「世界のはじまり」が「世界の終わり」でもあるというところにおもしろさがある。その「世界のはじまり」において出現した「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」という神は、あらわれてすぐに消えていったのです。そのあと四柱の神が次々にあらわれてくるのだが、それらの神も自分の仕事をしてすぐに消えていった。
この「消えてゆく」ということこそ「古事記」の冒頭のメインテーマだったのであり、そうやって「世界の終わりからはじまる」ということを説いているわけです。
日本列島において「神」は「あらわれて消える」ものであって「存在」するのではないのです。その「かなしみ」を、初音ミクのファンは汲み取っている。そうやって「世界の終わり」を抱きすくめながら涙している。
初音ミクがかなしんでいるというのではありません。その姿や声そのものに「かなしみ」が漂っている、ということです。