日本人としての誇りは必要か?・神道と天皇(70)

日本人の信号を守るとかごみを散らかさないというような集団性を、初めて日本にやってきた外国人が感心するそうなのだが、これを「規律正しさ」という言葉で片付けてもらっては困る。
日本人の規律意識は薄い。信号を守ることもごみを散らかさないことも、「規律(規則)」だとは思っていない。ただ、まわりの人との関係を穏やかで心地よいものにしようとしているだけだ。たとえそれが規律としては間違っていたり無意味であったとしても、まわりの人との関係が穏やかで心地よいものにできるのなら、それに従う。
それは、規律を構築しながら団結してゆくことではない。
この国では、誰もが寄る辺ない「混沌」に身を置きながら「連携」してゆく。おそらくそれが日本人の基礎的な集団性のかたちになっている。
「日本人は自立していない」とよくいわれるが、この国を訪れた外国人は一様に、この国ほど人々が多様なライフスタイルを持っている国もない、といって驚く。渋谷や原宿の街を歩けば、若者たちのファッションなんかてんでばらばらの混沌だ。この国では、どんな服装をしても許される。セーラームーンのコスチュームプレイかと思って眺めていたら、女子中学生の制服だと教えられて、またまた驚く。
たしかにこの国では誰も自立していない。しかしそれは、団結しているということではなく、誰もが寄る辺ない境涯を漂っているということであり、漂いながら連携している。その集団性に驚く外国人も多い。
規律を守ることが大人の資格だとは、必ずしも言えない。規律などなくても連携できるのがほんとうの大人だ、という場合も多い。この社会も個人の人生も、明日のことなどわからない。われわれは、その「混沌」その「無力性」を生きることができるか?
横に長い電車の座席でみんなが少しずつ隣の人とのすきまをつくって座ることができるのは、べつにそういう規則があるわけではないが、なんとなくそのようなかたちで連携しているからだろう。くっつきもしないし離れもしない、これはイワシの群れでもやっていることにすぎない。また、原初の人類は、密集しすぎた群れで他者の身体とのあいだにすきまをつくろうとして二本の足で立ち上がった。したがってこれは、人間性の自然だともいえる。
日本人の集団性の本質は、規律の上に成り立っているのではない。人間性の自然としての「混沌=無力性」の上に成り立っている。

「連携」という集団性は、きわめて原始的な集団性であり、それによって猿から分かたれたともいえる。と同時に、人としてのもっとも高度で創造的な集団性であり、政治制度や宗教の「規律」というものがはたらいているところでは起こりえない。それは、規律を無化し、ひとりひとりが創造的即興的に動いてゆくことによって成り立っている。
精密な工業製品は精密な規律でつくられているが、規律で芸術作品をつくることはできない。このとき芸術作品にあって工業製品にないものは、「ときめき=感動」である。
人と人の関係だって、ちゃんとした規律(ルール)を共有してゆけばそれなりに安定した関係になることはできるが、それは「ときめき合う関係」とは別のものに違いない。
核兵器を発射しないという規律(ルール)を共有してゆけば戦争は起こらないが、ときめき合う関係になれるわけではないし、戦争をしたいという衝動がなくなることもない。現在の世界でさまざまな民族紛争が絶えないのは、もしかしたらこの世界が核兵器を発射しないという規律(ルール)の上に成り立っているからかもしれない。
規律(ルール)が最終的な解決になることはない。そこを超えて人が自然のままであることができるためにはどうすればいいのかという問題は、いぜんとして残っている。規律(ルール)で関係をつくっているかぎり、人としての基礎であると同時に究極でもある「連携」という関係はつくれない。
日本列島は治安がよくて清潔だということで、日本人の国民性を「規律正しい」という言葉で語ってしまうのは正確ではない。規律によってそんな国土をつくることはできない。規律によって国土をつくろうとするから、治安が乱れ不潔になってしまうのだろう。イスラム教やユダヤ教の戒律に縛られた国々が戦争ばかりしているのは、今にはじまったことではない。メソポタミア文明発祥以来の伝統なのだ。
国土の治安のよさや清潔さは、規律によってではなく、規律を超えたひとりひとりの即興的で創造的な「連携」から生まれてくる。そしてそれはとても原始的な能力であり、人間であるかぎり世界中の誰の中にも宿っている。文明社会の規律が、すなわち宗教や政治の制度がその発現を阻んでいる。
日本列島は治安がよくて清潔で、しかも世界からの旅人に対してもフレンドリーだとすれば、それは、国家意識も宗教意識も希薄だからだ。
この先の世界がどうなればいいかということなどわからないが、とにかく日本列島の歴史を宗教や政治に回収して語ってしまうことですむとは思えない。
日本列島の集団性は、政治意識も宗教意識も希薄で、無防備に他愛なくときめいてしまうところにあり、ときめき合って集団の連携を生み出してゆく。
マツモトキヨシの店先にティッシュペーパーをはじめとするさまざまな商品が無防備に並べられてあるのは、この国の精神風土に「盗ってはならない」という規範が強くはたらいているからではなく、盗られないことを前提に並べてあるのならそれにこたえてやるしかない、という気分がはたらくからだろう。相手の領分を冒さないということ。日本列島には、そういう「おたがいさま」という文化がある。盗ろうと思えば盗れるのに盗らないのは、「盗ってはいけない」という規律を強く意識しているからではなく、盗られないことを前提にしていることを察するからであり、知らず知らずそういうかたちで「連携」してしまうのだ。盗ってしまえば、連携が成り立たなくなる。そのことに、なんとなくの居心地の悪さを覚える。それだけのことで、規律を基礎にした罪の意識というのとはちょっと違う。
「盗ってはいけない」という規律は、その規律から逃れることの達成感を得ようとする誘惑をもたらす。規律がなければ、達成感はなく、連携することができなかった、というなんとなくの居心地の悪さが残るだけだ。
日本列島の治安のよさや清潔さは、規律によってではなく、「連携」の上に成り立っている。

日本列島の文化は、「規律=秩序」を無視した「混沌」の上に成り立っており、その「混沌」を収拾してゆく作法が行き渡っている。
たとえばファッションにおいて、日本列島では、赤と緑とか紫と黄緑とか、そういう不協和音的な補色関係の組み合わせをしてはならないというような規律はない。着物においてはまあなんでもありで、その「混沌」の中からひとつの美の世界を生み出してゆく。そしてその伝統は、現在の「かわいい」系のファッションに受け継がれている。
能の物語や舞は「わび・さび」の美意識の極致のようにいわれているが、そこにだって悪霊が出現するという「混沌」が表現されているのであり、その「混沌」を収拾してゆくかたちで物語が終わる。
マツモトキヨシの店先の道路に商品が並んでいることだって、秩序を逸脱したひとつの「混沌」なのだ。そうして店の前を通るものたちは、それを盗っていかないことによって、その「混沌」を収拾している。
「混沌」が収拾されること、すなわち「消えてゆく」こと。「混沌」がなければ、「収拾する=消えてゆく」ことのカタルシスもない。
「混沌」とは、「出現する」ことであり「消えてゆくこと」でもある。日本列島の文化は「出現する」ことと「消えてゆく」ことの振幅運動のダイナミズムとして成り立っている。「わび・さび」とか「幽玄」といっても、静的な「存在=秩序」を志向しているのではない。
日本人は、けっして「規律正しい」のではない。つまり、宗教的ではない、ということ。規律・規範で行動しているのではない。規律・規範を生み出す宗教意識が欠落しているのだし、ひとまず規律・規範の存在しない「混沌」の中に身を置きながらそれを即興的創造的に収拾してゆく文化を育ててきた。

集団性という言葉は、国民性と言い換えてもいいのだろうか。
このまえYouTubeで、ある右翼系の評論家が「戦後の日本人はほんらいの国民性を失って70年の歴史を歩んできたのであり、それを取り戻すことこそ喫緊の問題である」と発言していた。
その評論家は武士道とか特攻隊とかにほんらいの国民性があると言いたげな口ぶりで、なんだか三島由紀夫みたいだなあと思わせられるが、ようするに戦後社会にのさばってきた左翼的なインテリが国民性を失わせた、といいたいらしい。
まあ現在は右翼系のインテリがけっこうのさばってきており、左翼系は押され気味なのだろうか。よくわからない。
どちらでもいいし、どちらも「俺こそ人間性や国民性のなんたるかをよくわかっている。俺のいうことを聞け」というようなニュアンスでえらそげな言い方をする評論家がけっこうたくさんいて、あまり愉快ではない。
いや、昔からそうなのだろうか。昔は本の上での露出しかできなかった人でも、ネット動画でどんどん発言してゆくことができるようになった。
動画の時代は、そういうえらそげな言い方をするほうが受けるのだろうか。
しかしねえ、べつに右翼が嫌いというわけでもないが、あんたなんぞに国民性のなんたるかを教えられたくはないよ、と思うことはよくある。
右翼であれば、左翼の連中は国民性を何もわかっていない、と言いたくなってしまう自信があるのだろうが、彼らがその自信ほどにはわかっているとも思えないことはいくらでもある。
戦後の国民は国民性を失ったといっても、いつの時代もも誰もが国民であったわけで、国民性を失っている時代などあるはずがない。アメリカや左翼知識人に洗脳されたといっても、洗脳されてしまうのも国民性以外の何ものでもないし、洗脳のされ方もそれぞれの国民によって違う。

以前にも書いたが、戦争直後の「パンパン」や「オンリー」や「ギブ・ミー・チョコレート」は「国民としての誇り」を失ってしまった証拠だといっても、もともと「国民としての誇り」も「人間としての誇り」も持っていないその「進取の気性」こそがこの国の国民性かもしれないわけで、そんなものを振りかざすほうがよほど「非国民的」であったりする。
あれほど無惨な負け方をしてまだ「誇り」がどうのとかっこつけているなんて、恨みがましさ以外の何ものでもない。負けたのなら、ひとまず「誇り」なんか捨ててしまうのが負けたもののたしなみかもしれない。
そのとき日本人は、負けたことの無力感や虚脱感を「祭りの賑わい」に昇華させていった。その「混沌を生きる」国民性は侮(あなど)ることも蔑(さげす)むこともできないし、それこそがこの国を訪れる外国人を驚かせている当のものかもしれない。
誰だって、どんな時代だって、人は「こうしか生きられない」というかたちに沿って生きている。特攻隊が偉いのなら、「パンパン」だって同じくらい偉いのだ。
今どきの多くの右翼知識人こそ国民性というものをよくわかっていない、と思わせられることも多い。わかっていないから、これまでアホな左翼知識人をのさばらせてきたのかもしれない。
日本人の集団性は、国民(あるいは民族)としての誇りを支えにしながらたがいに規律を押し付け合うことの上に成り立っているのではない。そういうのはちょっとドイツ的かなとも思うが、日本的ではない。
日本人に国民(民族)としての誇りなんかない。僕は、あえてそういいたい。日本人の良さをいえといわれても、一瞬口ごもってしまうのが日本人なのだ。そんなことを声高に吹聴したがるなんて、非国民だ。その良さを自覚していないからではない。それを誇りとしているわけではないからうまく口に出せないだけで、愛着ならたっぷり持っている。
明治時代の官費留学生はひとり残らずその成果を携えて日本に戻ってきた、などといわれているが、それは誇りを持っていたからではなく、愛着を持っていたからだろう。今どきの右翼の先生方はそれだけでは御不満らしいが、われわれ民衆にとっての「日本人としての誇り」などというものは明治以降に権力者たちから洗脳され持たされてしまったものであり、それによって敗戦の悲劇へと突き進んでしまうほかない歴史を歩んでしまったということもある。
愛着があるならそれで十分ではないか。
国旗に敬礼するような誇りを持たせることが、そんなに立派なことなのか。
偉そうに何がいいとか悪いというようなことをいわれても誰が尊敬してやるものか、と思う。そうやって神のように裁定する権利がいったい誰にあるというのか。その裁定が正しいという保証がどこにあるというのか。
その言説空間は、裁定したがるものと裁定してもらいたがっているものとの共犯関係で成り立っており、そうやって誰もが何者かになったかのように思い上がってゆく仕組みになっているらしい。まあ、彼らの思惑通りに歴史が流れてゆくとは限らないのだが。
歴史を決定するのは歴史であって、彼らではない。
あの戦争が歴史の運命だったのなら、戦後の歴史だって避けがたい運命だったはずだ。
「パンパン」になることにだって国民性はあるし、左翼インテリに洗脳されていったことも、バブル景気に浮かれていたこともまた日本人だからだろう。
日本人は、歴史をつくることができない。歴史に流されることの、その「混沌」を生きることに、日本人が日本人であることの由縁がある。流されることのカタルシスがあるし、流されながら文化を洗練発達させ、日本人ならではの集団性を育ててきた。
歴史に流されるものどうしでなければ、豊かな連携は結べない。そういう無力な存在どうしだから連携する。連携するとは、「生きられなさ」という「混沌」を生きることだ。

日本人の誇りが、何ほどのものか。日本人の誇りなど持たないで歴史を歩んできたのが日本人なのだ。明治以降の国家政策によってあれほど執拗に押し付けられ、あれほど他愛なく洗脳されてきたのに、戦争が終わったとたんにそれはあっさりと雲散霧消していった。
戦後を生きるわれわれの体の中を流れている歴史の無意識には、「日本人の誇り」などない。この日本列島を愛してはいるが、「誇り」など持っていない。「誇り」など持ってしまったら、規律を押し付け合うばかりで、うまく「連携」してゆくことができない。
日本人は、「誇り」によって団結しているのではない。誇りを捨てて「連携」しているだけだ。
「日本人としての誇りを持て」だなんて、あなた、それでも日本人か?
そういう醜悪な自尊心=うぬぼれなど持たないのが、日本人としてのたしなみというものだろう。
ネット画像隆盛のご時世のせいか、いまどきは右翼も左翼も、自尊心=うぬぼれの塊みたいなインテリがぞろぞろ登場してくる。
僕は人を見る目がないから話の内容を検討してから判断することにしているが、そんなの顔つきやしゃべり方ですぐわかるじゃないか、といっている人もいる。