どこにも行けない・神道と天皇(62)

縄文時代の文化習俗は、女の知性や感性がリードして成り立っていた。
死を怖れない文化は、女がリードする社会でなければ育たない。
一般的には男よりも女のほうが死を怖れない存在だということは、誰しも認めるところだろう。
人類の歴史は、「いつ死んでもかまわない」という勢いで進化発展してきた。原初の人類が二本の足で立ち上がることも、その後に地球の隅々まで拡散していったことも、「いつ死んでもかまわない」という勢いがなければ実現することはなかった。
最初にそう覚悟したのは、女だ。その覚悟を男が追いかけていった。そのようにして人類の歴史がはじまり、今なおそのような関係は残っている。ことに日本列島においてはそうだ。なぜなら日本列島にはそうした縄文時代1万年の歴史を持っているからで、そこで培われた文化の余韻が千年や2千年で消えるはずがない。というか、その余韻(=遺産)で今なお歴史を歩んでいるともいえる。
無常やわび・さびの世界観や美意識も、今どきの「かわいい」のポップカルチャーも、つまりは縄文時代の遺産なのだ。
土偶はまさに「キモカワ」の風情だし、火焔土器のむやみな装飾は、江戸時代の髪飾りや友禅模様や現代の重ね着のセンスに通じている。また、着物の小紋縄文土器の縄目が源流だといえるのかもしれない。
火焔土器などは、まったく実用性に欠ける。だから多くの歴史家が、呪術のためのものだ、という。だったら大切にされてそうたくさん作られたものではないはずだが、ある時期のある地域からたくさん出土されるし、火焔土器でなくても火焔土器のような模様を持っていたりする。つまり、火焔土器か否かは作り手の熱中の度合いの差だけのことだともいえる。あるいは、縄文土器の模様はすべて呪術のためのものだということになってしまう。火焔土器は特に装飾的だが、ほかの土器にそのような装飾性がないわけではない。
実用性をはみ出してしまっているのは、すべての縄文土器にいえる。おそらくそれは芸術表現だったのであって、呪術の道具だったのではない。彼らの暮らし(=世界観や生命観)にはそのような模様をつくりたくなるような動機(モチベーション)が豊かに生成していた、というだけのことに違いない。つくりたかったからつくっただけのことで、つくって面白がっていただけのことさ。

山間地の縄文小集落においては、行動範囲が狭いし、人付き合いも広くない。女子供は、山を越えた隣りの集落に行くこともままならない。ちゃんとした道はないし、クマやオオカミに襲われる危険も多い。男たちが旅に出てしまえば、女たちは暇を持て余す。一生のあいだ集落のある場所の外に出たことがない女だってたくさんいた。だから、その停滞=けがれに耐えられなくなって集落ごと移住するということをときどきしていた。縄文時代の1万年間ずっとそこに集落があったという例はない。あの三内丸山遺跡だって、中期後半には突然消滅してしまっている。女たちのそういうどこにも行けない暮らしの中から、火焔土器土偶や漆塗りなどの芸術が生まれてきた。それが幸せか不幸かといってもしょうがない。何はともあれつまり、芸術をする時間の余裕があったのだ。
土器づくりは、暇を持て余した縄文女たちの夜なべ仕事だった。
時間の余裕のないところから芸術が生まれてくることはない。
また、生きてあることのくるおしさやなやましさを持たないところから芸術が生まれてくることはない。
土偶だって、その表現はすでに芸術の領域に踏み込んでいる。火焔土器のあの複雑巧緻なモデリングを見れば、土偶を写実的なかたちにすることなんかさして難しいことでもなかったはずなのに、あえてそれをしなかった。そうしてみずからのくるおしさやなやましさを表現しようとしていった。
土偶はものすごくたくさん作られているはずだが、発見するのはじつはかんたんではない。なぜならそれは、一か所に埋めるというよりも、うち砕いて広い面積にばらまいていてしまうことが多かったからだ。で、多くの研究者はそれを「安産祈願の形代として」つまりひとつの「呪術」として埋めたというようなことをいっているのだが、だったらわざわざ壊すというようなことはしない。そうではなく、おそらくみずからの体や心の「けがれ」を屠り去る(=洗い流す)願いを込めていたのであり、彼らはそういうくるおしさとなやましさを生きていたのだ。
山間地に閉じ込められて生活していれば、どうしてもそうしたくるおしさやなやましさは募ってくる。そんなところで大集団(=共同体)をつくって支配だの階層だの義務だの権利だの愛だの憎しみだのというややこしい人間関係に煩わされていれば、気が狂ってしまう。そこではもう、できるだけ小さな集団のシンプルな人間関係でいるほかなかった。そしてそれだけでは生が停滞してしまうから、できるだけたくさんの人と人の出会いと別れも必要だった。そういう状況から旅する男たちが生まれてきたのだし、女でなければ山の中に定住することのくるおしさやなやましさに耐えられなかった。

縄文社会は、出会いと別れが豊かに生成している社会だった。彼らにとって「別れ」は、ひとつの「みそぎ」であったし、次の出会いのために必要な体験でもあった。
親子の別れ、男と女の別れ、生き残るものと死んでゆくものとの別れ、「別れ」は大切な体験だった。つらくかなしくても、大切な体験だった。
やまとことばの「かなし」は、ただ「悲しい」というだけでなく、「かなしみとともに深く愛おしむ感慨」をあらわす言葉だった。「別れ」を前提にして人にときめいてゆくということ。人が必ず死ぬ存在であるのなら、それが人と人の関係の本質だろう。明日も生きてあることを前提にした人との関係なんか結べない。縄文人の暮らしは、明日も生きてあることの保証なんかなかった。そして異民族の侵略も戦争もない社会だったのだから、明日も生きてあることを願う欲望が生まれてくる契機が希薄だった。現代社会は、そういう不安にさらされているから、生き延びようととする欲望が強くなったり生命賛歌をしたりする。本質的に、「呪術」はそういうところから生まれてくるのであり、縄文人より現代人のほうがずっと呪術的なのだ。
呪術は、その本質において、生き延びようとする欲望の所産にほかならない。
縄文人はプリミティブな呪術を生きていただなんて、何をとんちんかんなことをいっているのだろう。生き延びるための呪術など発想することなく、ひたすらこの生を嘆き、ひたすら目の前の世界や他者に驚きときめきながら生きていただけだ。彼らにとっては「死」も「別れ」もこの生の前提であり、そんな思考が生成している社会から「呪術」が生まれ育ってくるはずがないのだ。

とにかく縄文時代に女子供が山の中に定住することは「どこにも行けない」という暮らしをすることだったのであり、それは、「いつ死んでもかまわない」という覚悟なしには成り立たなかった。その覚悟こそが縄文文化すなわちその世界観や生命観をリードしていた。
それに対して文明社会の政治や戦争は男たちにリードされながら、その世界観も生命観もしだいに変質してきたわけだが、それでもいつの時代であれ「いつ死んでもかまわない」という勢い=覚悟を持った人は魅力的だし、この世のもっとも深く豊かな知性や感性はそこでこそ生成している。
そういうことを自覚的に意識しているというのではない。それは、もともと人の無意識として誰の中にも宿っているはずだが、現代の文明社会はそれを封じ込めてしまう構造になっており、いろいろややこしい人間模様にもなっている。
ともあれじつは誰だって「いつ死んでもかまない」という勢い=覚悟をそなえている人に憧れているのであり、人間的な魅力であれ知性や感性であれ、ようするにそういう問題なのだ。そしてそれは、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」のもとにこそもっとも深く豊かに宿っている。
生き延びようとする欲望をたぎらせながら現代人がどんなにインテリぶってもその知性や感性はたかが知れているのであり、縄文社会の女子供のそれには及びもつかないレベルにすぎないのだ。
と同時に、現在のこの国にも縄文時代の遺産はちゃんと残されている、ということも事実であるに違いない。
「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の知性や感性が現代社会を生き延びるために有効であるはずもないが、じつはそういう知性や感性にリードされて時代=歴史が動いてゆくというパラドックスが成り立っている部分もある。
現在の時代に次の時代の思考をしていたら生きられないに決まっている。現在を生きることができない思考が、次の時代の思考になる。現在の流行が次の時代の流行であるはずがない。
まあ流行で動いている世の中にあってはいつの時代も「トラディショナル」というのは生きにくいのであり、同時に流行に流されてあるからこそ、じつは誰もが「トラディショナル」に対する負い目を抱えている。だから流行はつねに移り変わってゆくし、ファッションなどは、「トラディショナル」を起点にして、そこから拡大していったり縮小したりということを繰り返しているだけだろう。
そして人間であることの「トラディショナル」は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」のもとにもっとも深く豊かに宿っている。
生きられなさを生きる覚悟を持ったものによって新しい時代が切り拓かれる。日本的な「進取の気性」も「無常観」もそこにこそある。そしてそれは、縄文時代以来の伝統なのだ。
縄文人は幸せだったから縄文文化は素晴らしい、というようなことはいえない。縄文文化が素晴らしいとすれば、それは彼らが「生きられなさ」の「くるおしさとなやましさ」を生きたからにほかならない。
幸せだから知性や感性が豊かに花開くというようなことはない。そんなことはあたりまえなのだけれど、人はついそんな倒錯した思考にまどろんでいたりする。
深く豊かな知性や感性はいつだってせっぱつまった覚悟から生まれ育ってくるのだし、人間なら誰だって無意識のところではそうしたせっぱつまった覚悟をして生きている。
人間的な知性や感性の深さや豊かさは、幸せの中にあるのではない。縄文人は自然と共生していた、などとかんたんにいってもらっては困る。共生できないくるおしさやなやましさが、彼らの文化を深く豊かなものにしていた。