終わりの始まり・神道と天皇(22)

東京では、ようやく桜の花が咲きそろってきた。
この時期になると、日本人はどうしてこんなにも桜の花が好きなのだろうといつも思わせられる。
森友学園問題は、終息しつつあるのだろうか。
証人喚問をする人もされる人も、総理大臣もその取り巻きの右翼と呼ばれる政治家たちも、森友学園の教育方針であるらしい「神ながらの道」というものをどこまでわかっているのだろうか。
コネを利用して国有地を安く払い下げてもらったというようなことは、たいした問題であるとも思えない。よくある話だ。そんなことよりも、「日本人にとって神道とは何か」ということのほうがずっと気になるところだが、今のところそれほど大きな議論にはなっていない。
けっきょく、「右傾化」とか「ナショナリズム」という政治的なレベルの問題にとどまっている。
仏教やキリスト教の学校はいくらでもあるのに、神道の学校となるとどうしてこんなにも異様に感じてしまうのだろう。たぶん戦前の「国家神道」と結びついているからだろうが、世の中にはわれわれが想像する以上にそうした「国家神道オタク」がたくさんいるという現実も、このごろ浮かび上がりつつある。
神道を「国家神道」として語れば語るほど、神道アンタッチャブルの問題になってゆく。
神道について考えることは日本列島の伝統風土について考えることのはずで、日本人は誰もが神社が好きであるはずなのに、その議論はいまいち広がることも深まることもできていない。
それは、「国家神道」を語ることでも「宗教」について語ることですらなく、今なおこの国に息づいているに違いない歴史の無意識としての伝統風土について語ることなのだ。
国家神道」なんてたかだか中世以降のことだし、ここでは縄文時代以来の伝統風土から生まれてきたものとして古代の神道を考えている。ただし、縄文時代から神道があったというのではない。それはあくまで、仏教伝来以降に、仏教に対するカウンターカルチャーとして生まれてきた。それ以前の祭りや葬式の儀礼のようなものは、ひとまずここでは神道とは呼ばない。なぜなら、人々はまだ「神」というものを知らなかったのだから。
日本人は、古事記によってはじめて「神とは何か」と問うていった。
それは、極めて原始的な神についての理解であると同時に、もっとも現代的な理解でもある。彼らはひとまず神を信じていったが、「神がこの世界をつくった」という、宗教の普遍的な本質である「創造説」をけっして受け入れなかった。自然の森羅万象は「おのずからなる」、というみずからの伝統である世界観をけっして手放さなかった。
だからわれわれは科学の「進化論」を当たり前のように受け入れることができるし、祭りのイベントとしてなら、どんな宗教とも親密な関係を結ぶことができる。
日本列島の住民の心はかんたんに宗教に冒されてしまう。と同時に、けっしてまるごと宗教に身をあずけることもできない。この国においては、「神がこの世界をつくった」という世界観はついに定着しなかった。
戦前はいともたやすく国家神道一色に染まってしまったが、戦後は夢から覚めたようにあっさりとそれを捨てた。
しかし、もともと宗教に冒されやすい民族なのだから、国家神道が復活する余地はつねに残されている。宗教を身体化することができない民族だからこそ、かんたんに宗教に冒されてしまう。ろくに神道のことを知りもしないくせに、神道の学校をつくってしまったりする。
神道の本質は宗教ではないからこそ、国家神道というかたちでしか宗教化することができない。国家神道というかたちでしか、神を畏れ崇拝してゆくことはできない。
しかし古事記の作者たちは、神なんか畏れても崇拝してもいなかった。「イザナギイザナミ」の「国生み」の物語なんか、ただのポルノグラフィでしかない。おもしろくてめでたい話ではあるが、崇高でもなんでもない。

前回以降の、「イザナギイザナミ」の登場までの記述を見てみよう。

次に淤母陀琉(オモダルノカミ)。次に妹阿夜訶志古泥神(イモアヤカシコネノカミ)。次に伊邪那岐神イザナギノカミ)。次に妹伊邪那美神(イモイザナミノカミ)。
 上件(かみのくだり)国之常立神(クニノトコタチノカミ)より以下(しも)、伊邪那美神以前(まで)、あわせて神世七代(かみのよななよ)と称(まを)す。


この「オモダルアヤカシコネ」の神は、一般的にいわれているように、はたして「男と女」だろうか。古事記の中の注釈では、それぞれの二柱を一世代として数えるといっているが、男と女だとはいっていない。
ひとまずここまでは神の国が出来上がってくる過程の記述だったのだろうし、神がどんな姿になっていったかとか、男と女として現れたとか、そういうことは何も語っていないし、語る必要もないはずだ。
このあとの「イザナギイザナミ」としてはじめて男と女になってあらわれた、という方が、物語の展開として整合性があるし、おもしろくもある。
それまですでに男と女だったのなら、なぜセックスしなかったのかということになる。また、そのときイザナギイザナミも男と女の体の違いとかセックスの仕方とかもよくわかっていなかったわけで、それまですでに男と女の神だったのなら、そこでおたがいに問い合い確かめ合うというようなことはしないはずだ。そこではじめて「男と女」になって現れたからこそ、そういう場面が生まれてくる。
イザナギ」の「ギ」は男の尊称で、「イザナミ」の「ミ」は女の尊称だと解釈されているのだが、だったら、「イザナミ」の頭に被せられた「イモ」という言葉は女を意味していないことになる。そうでなければ「ミ」は、ただの蛇足になってしまう。
おそらく、ここまであとに続く神に繰り返し被せられた「妹」という字は、「女」という意味ではなかった。「パートナー」という意味なら納得できる。「パートナーのアヤカシコネ」「パートナーのイザナミ」、そういっているだけではないだろうか。
そういう「連携」を積み重ねることが下準備になって、「イザナギイザナミ」という男と女の神が現れてきた。
上の引用文の最後のほうで「伊邪那美神以前(まで)」といっているということは、「妹」は神の名称には入っていない、ということを意味している。
そして「妹」は「いも」とも「せ」とも読むわけで、この「妹阿夜訶志古泥神」を、「いものあやかしこねのかみ」と読むか、それとも「せのあやかしこねのかみ」と読むか、という問題もあるのではないかと思える。もっとも僕には、それを検証できる用意も知識もないのだけれど。

本居宣長は、「オモダル」の「おも」は「面=顔」で、「だる=たる」は「足る」、「御面(みおもて)が不足なく整っている神」であるといっている。つまり、ここで神のかたちが完成した、というわけだが、しかし「神のかたち」などあってないのが神道であり、ここでそんなことを語っているなんて、とてもじゃないが信じられない。
神のはたらきが完成することは、神の顔が立派になることか。冗談じゃない。今どき、子供のマンガでもそんな安っぽい発想はしない。これだから神道オタクは困る。この部分は、本居宣長の注釈で、いちばん不愉快な部分だ。顔などというものは、もっとも人間くさいしろもので、「神の顔」などというものはないのだ。神の顔なんか想像しないのが、人間としてのたしなみというものだろう。
神の御姿が完成した、などというが、じゃあそれまでの神はぜんぶ未完成だったのか。未完成な神、などというものがいるのか。いいかげんにしてくれよ、と思う。
こんな書き方をすると「ずいぶん感情的だ」と批判されそうだが、そのとき古代人だって、みんなで神とは何かとワイワイガヤガヤおもしろおかしく語り合いながらも、自分たちはこの「神」という新しい概念をどう咀嚼しこれからどう付き合ってゆくかということの真剣勝負をしてもいたのだ。
神道オタクのこんな安っぽい解釈を聞かされると、それこそ古事記のためにかなしくなってしまう。
おそらく、顔のことなんかいっていない。
「おも」は「主(おも)に」の「おも」でもある。問題の中心というか、もっとも肝心なところというか、それはつまり、神の国が神に国であることであり、「神の国高天原」として「足(た)る=完成」した、といっているのではないだろうか。とにかくここまでは、神の国が出来上がってゆく過程を語ってきたのだのだもの。
「おも」は、「重い」の「おも」でもある。「強調」の音声である「お」と、「盛る」「持つ」の「も」。「重い」とは、ありったけの力を籠めること。そして「思い」の「おも」でもある。「思い」こそ、人が生きてある上でもっとも気になるものであり大切なものだろう。この場合は、そういう「おも」なのだ。古いやまとことばには、ひとつの言葉に、さまざまなニュアンスが宿っている。
具体的にはどんな景色かは知らないが、とにかくそこに壮麗な神の国が現出したのだ。そうなってはじめて、地上の「国生み」に取り掛かることができる。
そして本居宣長は、「アヤカシコネ」の神はそのご立派なお顔に「畏れ多く敬われる」心地になった、という。「かしこ」とは、そういう言葉なのだとか。
「あや」は「彩錦(あやにしき)」の「あや」。もともとの「あや」という言葉には、はるかで晴れ晴れとした感慨がこめられている。であれば、色鮮やかな錦の上に「あや」という言葉をつけるのは似合うが、宣長のいう「かしこ」は「一途で純粋な気持ち」であり、その気持ちには似合わない。言語矛盾になってしまう。
手紙の終わりに「かしこ」と書く。近ごろ世界サミットのあった「賢(かしこ)島」は、海に面した「行き止まりの地」だからそういう。
「か」は「カッとなる」の「か」、「鮮明」「決定」のニュアンス。
「し」は「しんみり」の「し」、「静寂」「孤独」「固有性」のニュアンス。
「こ」は「濾す」「凝る」の「こ」、「出現」「固着」のニュアンス。
過ぎてしまったことに対する詠嘆を込めて「……ぞかし」といったりする。
手紙の最後に書く「かしこ」とは、「胸に込み上げる惜別の思いとともに」というような気分だろうか。
「ね」は「根」「寝る」の「ね」、「基礎」「安定」のニュアンス。
「あやかしこね」とは、「大団円」というか、「すべてよし」というか、宴の終わりにはればれと手打ち式をするような意味合いなのではないだろうか。
「あやかしこね」という音声の響きに、「畏れ敬う」というニュアンスは感じられない。「アヤカシコネ」の神は、神の国の建設の総仕上げをした神。

で、「イザナギイザナミ」の神の登場ということになる。一般的にはこの「いざな」は、本居宣長もいうように「誘(いざな)う」という意味に解釈されているわけだが、「いざ」だけなら、「いざ出発」というような「はじまり」をあらわす言葉になる。「はじまり」の気配をそなえた神、と解釈することもできる。
「なぎ」は「凪」、平(たい)らであること。「なぎ倒す」といえば「平らにしてしまう」こと。「みなぎる」は「身が定まる」こと。
そして、「なみ」は「波」、充実して盛り上がること。「なみなみと酒を注ぐ」などという。「み」は「実」「身」、「充実」をあらわす。
イザナギイザナミ」という名称は、「はじまりの気配が定まり、充実して盛り上がる」ということをあらわしている。
ただ、ここでの「ぎ」は男の尊称で「み」は女の尊称だといわれているわけだが、それは隠された意味であって、表立ってそういっているのかどうかということはわからない。
もしもこのあとにこの二柱の神がセックスをして「国生み」をするという話がなければ、「誘(いざな)う」という意味は成り立つだろうか。研究者が勝手に先回りしてそう解釈してしまっているだけではないのか。ここまでの流れに沿って考えるなら、「いざ」という「はじまり」のニュアンスに解釈した方がつじつまは合う。まあ、次の展開の伏線として「誘(いざな)う」という意味も含まれてはいるのだろうが、第一義的な意味とはいえない。
古代人は侮れない。もしかしたらそれはじつに巧妙な命名であり、とにかく「古語のふり」にはひとつの言葉に複数の意味が込められているのだ。