都市の起源(その四)・ネアンデルタール人論155

その四・きらきら輝いている

都市の祝祭性、という問題がある。そこに引き寄せられて人が集まってくる。
人類拡散の果てに氷河期の北ヨーロッパで暮らしていたネアンデルタール人の社会だって人と人が他愛なくときめき合うフリーセックスをはじめとする「祝祭性」の上に成り立っていたのであれば、その洞窟集団もまたひとつの「都市」だったといえる。それは、「家族」でも「親族」でも「部族」でもなかった。あくまで「どこからともなく人が集まってきてできた集団」だったのであり、ひとりひとりは孤立していた。だから他愛なくときめき合っていったし、離合集散の動きはつねに起きていた。
そしてラスコーやアルタミラのような大きな洞窟では人口が2〜300人になることもあったわけで、そのころの人類集団としては、世界中でもっとも大きな規模だった。
氷河期の冬においては、一年中温度が変わらない洞窟の奥の場所でなければ産んだ子供を育てることはできなかった。だから、そういう場所のない洞窟の女はどんどんそこから出ていったし、とうぜん男たちもそのあとを追いかけていった。そしてそういう場所のある大きな洞窟に人が集まっていった。
人類拡散だって、女が出ていったことがはじまりだったのだろう。猿だって、メスが群れを出てほかの群れに身を寄せてゆくということはよくしている。女は、基本的に性衝動なんか持たないから、見慣れた男に寄ってこられても鬱陶しがる。そして、ほかの集団の見知らぬ男なら「やらせてあげてもいい」という気になってゆく。そして追いかけていった男たちもまた、そのたどり着いた集団の女たちから歓迎された。
ネアンデルタール人のフリーセックスの生態は集団の離合集散から生まれてきた、ともいえる。
都市の発生の問題は「どこからともなく人が集まってくる」という人類拡散の問題でもあり、しかしそれは、一般的にいわれているような、生き延びるための衣食住や、この生やこの世界の「安定と秩序」を求める「宗教=アニミズム」の問題でもない。人は、この生やこの世界の「混沌」の中に身を置こうとして旅立ってゆくのだ。その「もう死んでもいい」という勢いのときめきの上に都市というか人間の集団が生成しているのであり、そんな「祭りの賑わい」に引き寄せられて人が集まってくる。
女は、「もう死んでもいい」という勢いで、男に「やらせてあげてもいい」という気になってゆく。かつて都市の遊郭に売られていった少女たちは、「もう死んでもいい」という勢いで客の男に「やらせてあげてもいい」という気になっていった。
女の方が、都市の混沌を生きる能力を豊かにそなえている。
人類拡散なんて、女がどんな男にセックスアピールを感じるのかという問題だ、といってもいいくらいだ。女によってリードされながら人類拡散が起きてきた。
今どきは「男は旅に出る生きものだ」ということが通り相場になっているが、「安定と秩序」を求める共同体の制度性に心がからめとられる社会的立場に置かれているために、女ほど「混沌」を生きていないからだ。制度性に心をからめとられて、どうしても落ち着かなくなってしまう。
男は、「安定と秩序」から逃れて旅に出る。
女の心は、すでに「安定と秩序」の外にある。
昔の人が「女、三界に家なし」といったのは、そういうことではないだろうか。
人の世界は、けっきょく女がリードしている。女の中の「混沌」がリードしている。


心にとって「安定と秩序」ほど落ち着かない状態もない。心の中に「神の秩序」を持っている人は、たえず現実世界の混沌に苛立ったり不安になったりしていないといけない。そうして世界や他者を無理やり自分が信じる「神の秩序」に押し込めようとするか、他者との関係から逃げて自分の世界に引きこもってゆくかのどちらかになってゆく。アスペルガー統合失調症やもろもろの発達障害の多くは、そうやって引き起こされているのではないだろうか。
この世に「秩序」というものなどないのに、勝手に「ある」と妄想してしまう。この世はわからないものだらけで、われわれはその「混沌」を生きてゆくしかないはずなのに、その「わからない」ということにときめき飛び込んでゆくことができなくなってしまう病理があるらしい。
人は、「わからない」という心の動きを持ってしまっている。それによって猿から分かたれたのであり、その心の動きが人間的な知性や感性の基礎になっている。「わからない」、すなわち「なんだろう?」と問うからこそ、「気づく=発見する」という「ときめき」を体験する。
人の心は、「わからない」という「生きられなさ」に飛び込んでゆく。この世のもっとも豊かな知性や感性の持ち主は、この世のもっとも弱く愚かなものでもある。
知性とは、「愚かさ」の別名なのだ。「わからない」ということに飛び込んで身もだえしながら「何だろう?」と問うてゆく心の動きのことを「知性」という。それは、高度な学問だけのことではない。人が人を想うことだって同じで、そういう「好奇心」とともにときめいてゆくのではないのか。
この生に「安定と秩序」が欲しいのなら、知識を得て「わかった」という体験をすることに満足するのだろうが、本格的な知性は、つねに「わからない」という「混沌」の中に身を置きながら「なんだろう?」と問い続けている。
問わなければ「気づく=発見する」ことの「ときめき」もない。
知性とは「なんだろう?」と「問う」心の動きのことであり、「わかる」ことの「安定と秩序」に漂っている自己撞着のことをいうのではない。人の心は、そうやって自己撞着しながら他者に対する「反応」を失ってゆく。「反応」しないで、自分の中の「安定と秩序」という、自分の中であらかじめ設定している意味や価値の意識で世界や他者を吟味したり裁いたりしてゆく。そうして、自分の中の意味や価値で計れないものに対してつねに苛立ったり怯えたりしていなければならなくなる。
百科事典や国語辞典は、この世界に「安定と秩序」をもたらしているのではなく、この世界はわからないことだらけだという「混沌」のさなかを生きることを支える装置として機能している。知性は、百科事典や国語辞典から旅立つのであり、そこが旅の終着点ではない。
この世界はわからないことだらけだと思い定めて生きてゆくのが都市生活の流儀であり、その「わからない」ことに耐えられなくなって心を病んだり「神」にすがったりする。あるいは、すでに心の中に「神」を持ってしまっているから、「わからない」ことに耐えられない。そうやって「なんだろう?」と問う心を失ってゆく。
人類は「なんだろう?」と問いながら地球の隅々まで拡散していったのであり、「なんだろう?」と問いながらどこからともなく人が集まってきて「都市」が生まれていった。


「ときめく」とは「なんだろう?」と問うことだ。
ネットの世界で、顔も名前も知らない相手と文字で会話をしながらヴァーチャルな恋をするのは「ただの現実逃避だ」という批判もあるが、そこでこそより豊かな「なんだろう?」という問いが生成しているともいえる。そうやって「わからない」相手に対する「好奇心=ときめき」がどんどんふくらんでゆくことは、人間性の自然として大いにありうることだ。
人の心は、「わからない」という「混沌」の中でときめいてゆく。「ときめく」とは、「なんだろう?」と問うこと。「気づく=発見する」とは、自分が持っている意味や価値で対象を吟味することではなく、意味や価値の彼岸の「非日常の輝き」と出会う体験だ。
人の心は、「きらきら輝いている」ことの、その「非日常の混沌」にときめいてゆく。「気づく=発見する」とは意味や価値の彼岸の「非日常」の世界に超出してゆく体験であり、それはもう、科学者が何かを発見することだろうと、おバカな若者がチャットで恋をしてときめくことだろうと同じなのだ。因果なことに、世界はそこでこそ輝いている。
科学者は、その既成の意味や価値の外にあるものを前にして「いったいこれはなんだろう?」と問いながらときめいているのであり、「わからない」という「混沌」の世界に分け入っているというそのことにときめいているのだ。相対性理論素粒子を発見したからといってそこで彼らの探求の旅が終わるわけではない、そこから旅が始まるのであり、これでしばらく退屈しないですむ、とほくそ笑んでいる。
世界はわからないことだらけだという「混沌」が人の「好奇心」を刺激している。すでに存在する「意味」や「価値」の外の、その「非日常の輝き」にときめいてゆく。人の心は「わかる」ことにときめくのではない、「わからない=混沌」の、そのきらきらした輝きにときめいている。
宝石であれ、火であれ、木漏れ日であれ、水のゆらめきであれ、美女の微笑みであれ、赤ん坊の無邪気な表情であれ、きらきらして輝いているものは「非日常」の「混沌」の世界に存在している。


「日常=この生=自分」の「安定と秩序」に執着・耽溺してしまったら、心はどんどん停滞・衰弱してゆく。そうして、不安や警戒心ばかり募ってゆき、つねに世界や他人を監視していなければならなくなる。彼らにとって「日常=この生=自分」は「安定と秩序」であらねばならない。その強迫観念とともに共同体の制度性が成り立っているのであり、そんなありもしないものに憑依しながら「神」だの「生まれ変わり」だの「霊魂」だのと言い出すのだし、またあるものたちは、この社会を「安定と秩序」に向けて変革してゆかねばならない、などと扇動することに躍起になっている。
どうしてそうやって社会や他者を監視し支配しようとばかりするのかなあ。「ほっといてくれ」といいたくなってしまう。そのグロテスクな自己撞着は、いったいなんなのだ。民主主義だろうとファシズムだろうと、知ったことではない。この社会はみなさんのものだからみなさんで勝手にやってくれ。われわれは、生きにくいことはもう、この生の避けがたい与件として承諾している。そんなふうに扇動されても、鬱陶しいばかりだ。彼らは、そのグロテスクな自己撞着に、どのていど気づいているのだろうか。それこそがこの社会の正義だから、ほとんど気づいていないのだろうな。現代人は扇動家を目指すことによって社会的に成功してゆくのだが、その、この社会やこの生は「安定と秩序」であらねばならないという強迫観念によって心を病んでゆくことも多い。そのグロテスクな自己撞着は、ちっとも魅力的じゃない。あなたたちは、あなたたちがうぬぼれているほど魅力的ではないし、そんな「安定と秩序」を目指すことが人間性の自然でもない。
知性の本領は、「でたらめ」をただすことにあるのではない。知性は、「でたらめ」という「混沌」を生きようとする。
まったく都市は、無節操で「でたらめ」だらけだ。このままでは富の偏在化や下流市民の貧困化が進行するといっても、都市にはそういう「でたらめ=混沌」が生成している。われわれはもう、富を占有しようとするえげつないエゴイズムも、貧困化してゆく愚かさも否定できない。富という「安定と秩序」を目指すことも、つまりは都市の「混沌」やこの生の「不条理」から生み出される動きにほかならないのだから。それに耐えられなければとうぜん富や社会的成功という「安定と秩序」を目指すし、「混沌」や「不条理」を生きてどんどん愚かになってゆくものもいる。
「きらきら輝いている」という、その「混沌」に向けて、人の心はときめいてゆく。世界中の人が「きらきら輝いている」ものが好きだ。それは、「きらきら輝く」というその「混沌」にときめいているということであり、「ときめく」ということそれ自体が、心が「きらきら輝く」体験にほかならない。
人の心は「きらきら輝く=混沌」と「安定と秩序の充足」のあいだを揺れ動いている。「安定と秩序の充足」ばかりに執着・耽溺してゆけば心が病んでゆく。いくら「平和」や「幸せ」が大事だといっても、それだけでは生きていられない。「安定と秩序の充足」を得る「賢さ」だけでは生きていられない。人の脳のはたらきは、「混沌」の中に身を投じて「愚か」になってゆく運動性を避けがたく持ってしまっている。
この世のもっとも豊かな知性の持ち主は、この世のもっとも愚かなものでもある。知性は、「混沌=不条理」を生きようとする。人類史の文化の進化発展というか、そのイノベーションは、「わからない」という場に立って「なんだろう?」と問うてゆく心の動きとともに起きてきたのだ。つまり、みずからの「愚かさ」に身もだえしながら進化発展してきたのだ。
中途半端な知性や感性のインテリほどみずからの「賢さ」にうぬぼれており、中途半端な知性や感性の民衆がその「賢さ」に憧れて飛びついてゆく。この社会がそういうネットワークで動いているのなら「まあ勝手にやってくれ」というしかないのだが、この世のもっとも本格的な知性や感性の持ち主ももっとも愚かなものたちも、そのネットワークからはぐれてしまっている。知性や感性とは、その本質・自然において「愚かさ」なのだ。彼らは、みずからの「愚かさ」に身もだえしながら生きている。
都市生活の倦怠や無気力、ストレスや鬱病やインポテンツ、DVやいじめ、不眠症や肩こり、離婚や離職、少子化や貧困化、ニートやひきこもり、偏差値重視やサラリーマンの社畜化、戦後の経済繁栄とともに日本中が都市化しているといわれる今、われわれは都市生活とは何かということを試行錯誤しているのだろうか。都市生活の流儀をよく知らないものたちがあまりにも大量に急激に流入してきて、都市生活がそういうものたちに牛耳られているということだろうか。
現代人の心は、「安定と秩序」という意味や価値にとらわれることによって病んでゆく。人の心は「祭りの賑わい」の混沌の中での「出会いのときめき」を待っているというのに、現代では、「安定と秩序」に充足せよ、生き延びるためのルーティンワークを追求せよ、と迫ってくる社会の構造がある。「なんだろう?」と問うことをやめて、この世界のすべてを意味や価値で裁量してゆけと声高に扇動する中途半端な知性や感性のインテリがのさばり、それに賛同する思考停止した大人たちがたくさんいる。彼らによって、都市生活がますます生きにくいものになってしまっている。


今やマスコミに登場する思想家や評論家は政治や経済を語るものたちの独壇場になっているが、都市生活者の誰もが、そんなことを第一義の問題にして生きているとはかぎらない。内田樹などは「街場の」のなんたらという決めゼリフとともに、大人たちが主導する「共同体や自意識の安定と秩序」でそうした都市生活の問題が解決されるような言い方ばかりしているのだが、そういう成功者に都合のいい論理の大合唱が都市生活を生きにくいものにしているということに気づいていないというか、それを無視しようとしている。そんな内田樹の充足を後追いしたがる読者がたくさんいるらしいのだが、彼らの知性や感性のなんと貧相なことかということも、最近になっていわれはじめている。
都市は、彼らの自意識の充足のために存在するのか?彼らは、みずからの自意識の充足のために、世間や若者をさげすむことばかりいってくる。彼は最近『日本の反知性主義』という世間や若者の「反知性主義」を批判する本を出したが、みずからの知性にうぬぼれているなんて、少しも知性的ではない。知性とは、その本質・自然において「愚かさ」であり、「反知性主義」なのだ。本格的な知性の持ち主ほど、みずからの「愚かさ」に身もだえして生きている。
まあ、内田樹や今どきの大人たちのように自意識の充足に執着・耽溺してゆくなんて、たんなる自閉症的な病理にすぎない。そうやって現代人は、認知症になりインポテンツになってゆく。内田樹などは、その性向のために女房子供にそむかれて生きてきたくせに、何をカッコつけたことをいっているのだろう。今はたくさんの取り巻きがいるのかもしれないが、それによってこれまでの嫌われ者の人生が帳消しになるわけではない。自意識を満足させるためには、親しい他者を支配下に置いておかないといけないが、相手は大いに鬱陶しがる。どんなに世渡りが上手でも、そうやって親しくなったとたんに相手の心は離れてゆく、ということを繰り返してきたのだ。そしてこれは、内田樹だけのことではない。現在の家族崩壊の問題でもある。ある日突然、自意識の「安定と秩序」に充足しきっている、そんな配偶者や親の顔がよそよそしく気味悪いものに見えてきたりする。
現在の都市を自意識の充足の場にしてしまったのは、いったい誰なのか?
それでも都市生活者は、自意識のわずらわしさに身もだえしながら、そこから解き放たれる「祭りの賑わい」の「混沌」の中での「出会いのときめき」を待っている。
都市は、無節操に増殖してゆく。われわれはもう、そこで生きてゆくしかない。いやな人間も、魅力的な人もいる。自意識の充足に執着耽溺した気味悪い人のそばにいるのは、ほんとにしんどい。この世の中はそんな人間ばかりだと思えば、そりゃあもう、ひきこもりたくなる。しかしそれもまた自意識のなせることで、それでも街に出て、そんな自意識のわずらわしさから解き放たれて、「今宵逢う人みな美しき(与謝野晶子)」という体験ができればとわれわれは願っている。