原節子論・あるがままの自分


あのベストセラーの著者の名前はもう忘れたが、『女性の品格』などといわれもねえ。人の品性とか品格というものを、あんな俗っぽいおばさんがあんな俗っぽいレベルで語ってしまっていいのだろうか。あの本の読者たちは、あの著者のおばさんに「品格」というものを感じていたのだろうか。こうすれば品格を持てるとか、私はこうして品格を持ったとか、品性とか品格というものがそんな作為的な目論見でつくれるものだろうか。
品性をつくろうとするそのことがすでに下品なのだ。
残酷なようだが、「品性」というのはもう持って生まれたもので、あとからつくろうとしてつくれるものではない。「持って生まれた」というといささか語弊があるわけで、その人が生きてきた環境要因によってすでにつくられているものであって、持とうとして持てるものではない。
いいかえればそれは、「世界の輝き」として「他者」の中に発見されるものであって、「自分」の中にあるのではない。自分が持っている品性に執着すれば、他者の存在はもう、自分の品性を確認するための道具でしかない。そんなふうに他者と接するなんてとても下品なことに違いない。品性がないから、品性をつくらないといけないのだ。まあ、あの「女性の品格」の著者のおばさんはそんなふうにして生きてきたわけで、そんな自慢話のどこに「品性」があるというのか。
自分には品性がある、などと思うなよ。「あるがままの自分」であればいいのだし、誰もが自意識過剰で作為的になってしまう現代社会ではそれがどんなに困難なことかということを思い知った方がいい。
原節子が雲隠れして以来、この国はますます自意識過剰の傾向になってきた。そのあげくに、「女性の品格」などという下品なベストセラーが生み出されたのであり、内田樹とか上野千鶴子をはじめとするそうした自意識過剰の作為性満々の作家たちがのさばっている。彼らは、戦後社会の平和と繁栄によってもたらされたその自意識過剰の作為性を一部の民衆と共有してゆくことによって人気作家たりえている。
そんな自意識過剰の作為性によって、現代社会の認知症鬱病やインポテンツや発達障害やいじめなどのさまざまな病理が解決されるか?されるはずがない。そんな自意識過剰の作為性による「生き延びる」ための「ネットワーク」に参加せよといわれたって、いやなこった。
女として「生き延びる」ために「品格」を持ちましょう、だってさ。原節子が雲隠れして以来、ますます「生き延びる」ための「自分=この生=日常」に執着するようになってきて、人と人の関係がどんどんなれなれしくじゃれ合ったり、その裏返しとして憎み合ったりするようになってきた。
今どきは、そんな作為的で自意識過剰の大人たちがなんと多いことか。だから彼らは、若者たちに幻滅される。



原節子が、自分には品性があると思っていたかというと、おそらくそんなことはあるまい。品性をつくろうとか磨こうとも思っていなかった。あるインタビュー記事では「あるがままの自分でありたい」といっていただけであり、そんな原節子の姿やちょっと不器用にも見える演技に大衆は最上の「品性」を見ていた。
人間性の自然という、そんな「あるがままの自分」でいることがどんなに難しいかということが現代社会を生きるものの生態としてあり、誰もが自分をつくろうとしてしまう。そんな「自意識」を誰もが避けがたく持たされてしまっているのが現代の文明社会で、その自意識によって生き延びようとし、その自意識が生きにくくもさせている。だからこそ人は、そんな自意識から解き放たれて世界の輝きに他愛なくときめいてゆく「あるがままの自分」でありたいと願う。
映画とか小説とか漫画の世界では、ときに他愛なくときめいてゆくことが起きる。そういう「他愛なさ」をおしゃれに表現するのは、ハリウッドよりもヨーロッパの映画の方がうまい。リアリティがないとか現実的ではないといっても、そこにこそ人の願いがあり、物語のカタルシスがあったりする。つまり、ヨーロッパの方が人間を深く見つめているからこそ、そういう他愛なさに対するこだわりも深く切実になる。
その「他愛なさ」にこそ、原節子のいう「あるがままの自分」がある。現代的な「つくりものの自分」をそぎ落とした「清潔感=品性」がある。
「つくりものの自分」で複雑ぶっても上品ぶっても、かえって単純で下品に見えてしまったりする。
ヨーロッパ映画が表現する他愛なさには、人間とは何かと問い続けてきた文化の層の厚さが堆積している。幸せや成功を追いかけて歴史を歩みはじめた国のスペクタクル志向とは違う。
余談だが、アメリカのスペクタクル志向というかラグジュアリー志向はむしろイスラム文化に近いし、ユダヤ的、と言い換えてもいい。この国の戦後社会だってだんだんそういう志向になっていったのだが、もともとそういう文化の伝統ではないから、ここにきてさまざまな弊害や混乱や戸惑いが露出してきている。
『女性の品格』をつくって幸せと成功をつかみましょうといっても、この生のなやましさやくるおしさは、そんな単純な図式ではすまないし、その作為的な料簡自体が下品だ。幸せや成功など目指さないことを「品性」というのだし、その「あるがままの自分」で生きることができる「他愛なさ」こそ「品性」の正味のかたちにほかならない。
まあ、誰からも好かれ憧れられているよほどの美女でなければ「あるがままの自分」であることなんかできない、ということだろうか。
自分をつくろうとするのではなく、「あるがままの自分」であること。自分をどう見せるかではなく、「あるがままの自分」で世界の輝きに豊かに「反応」してゆくことができる「華やぎ」のことを「品性」という。そうやって人は泣いたり笑ったりしているのだが、作為的に泣いたり笑ったりすることをつくっている人もいる。そこがややこしい。そういう人は、自分をつくるたしなみを持つことが「品性」だと思っている。彼らは、人間の本性は「下品」なものだから「品性」はつくらないと持つことができない、と考えている。しかしその「つくる」という作為がそもそも下品なのだ。



誰の中にも世界の輝きにときめいている部分はある。その、自分を忘れて他愛なくときめいてゆく無意識が心の底にはたらいていて人を生かしている。そのはたらきがなければ人は生きられない。論理的に、そうでなければこの生は成り立たない。
人であれ生きもの全般であれ、生き延びようとする衝動を本能として持っているから生きているのではない。世界の輝きに対する「ときめき」が人も生きものも生かしている。そういう「ときめき」のことを「命のはたらき」という。生き延びようとする欲望をたぎらせて自分をつくってゆくことを「命のはたらき」というのではないし、現代人はそんなことばかりしながら「命のはたらき」を喪失した認知症鬱病やインポテンツになったりしている。
生き延びるためには自分をつくってゆかないといけない。人に好かれないとこの社会では生き延びられない。人に好かれる自分をつくってゆかないといけない。まあ、人に好かれないものほど、人に好かれる自分をつくろうとする。つくらないと好かれることができない。品性のないおばさんは、人一倍の努力で品性をつくって社会的に成功し、『女性の品格』という大ベストセラーを生み出した。
そしてすでに人に好かれる品性を持っている原節子は、品性をつくろうとするような努力は一切せず、「あるがままの自分」であろうとした。人に好かれたいと思わなくてもすでに好かれていたし、思わなくても人にときめいて輝くような笑顔を持っていた。好かれたいという下心など持たない「あるがままの自分」のときめきだからこそ、より清潔で上品に、まばゆいばかりに輝いていた。原節子自身が、世界の輝きにときめいていた。心の中に。そういう「あるがままの自分」の純粋な「憧れ」を持っていた。だから、平気で引退してしまうことができたのだろう。引退していったその先の世界は、さらに美しく輝いていた。そうでなければ、そんなことはできないはずだ。つまり原節子は、自分が輝いている場所よりも、自分の外の世界が輝いている場所を選んだ、ということだ。小津安二郎のいない映画の世界にはもう、輝きを見ることができなかった。引退していったその先で市井の人として、空の青さや陽の光や雲や木や花や町の景色や街ですれ違う人びとの輝きに、より豊かに他愛なく純粋にときめいていった。
引退後の原節子はもう、公の世界にはいっさい出てこなかったが、外を散歩して人と出会えば、たとえ見知らぬ相手でも自分の方からその輝くような笑顔で声をかけ挨拶してゆく人だったという。
人に好かれる自分でありたいとか、自分は人に好かれているとか、そんな自意識なんか下品だ。「あるがままの自分」で一方的にときめいている笑顔こそもっとも輝いている。
老齢になった原節子は、美輪明宏にちょっと似ていて、美輪明宏よりもずっと上品なたたずまいを漂わせていたのだとか。
人に好かれたいなんて、人は自分を好きにならねばならないと人に要求していることでもある。そんなことは人の勝手ではないか。どんな要求もしない、すべてを許してその存在そのものにときめいてゆくことができるか?そこにおいて「女神の品性」の輝きがあるし、人は心の底のどこかしらにそんな純粋で他愛ない「ときめき=憧れ」を持っているのであり、それが人を生かしている。われわれはべつに生きようとする衝動で生きているのではない、この世界の輝きに「生かされてしまっている」だけだ。このいたたまれない生を。
原節子がいうように「あるがままの自分」になれば、世界は存在そのものにおいて輝いている。その自然を生きるためのよりどころとして、人間社会に「女神」という概念が機能している。
「品性」は作為的につくるものではないし、自分のもとに「品性」があると思うべきでもない。「品性」は「女神」のもとにあり、自分の外の「他者」のもとに発見されるものだ。
「女神」とは、自分の外の「世界の輝き」のこと。
人の心は、「品性」に引き寄せられる。それは、「非日常」の世界に憧れ引き寄せられる、ということだ。人の心は、「自分=この生=日常」から逸脱して(解放されて)「非日常」の世界に超出してゆくようにしながらときめいている。



品性をつくろうとするな。「あるがままの自分」であればいいのだし、そこにこそ品性の輝きがある。
「あるがままの自分」、すなわち人は「人間性の自然」として心の中に「憧れ」を持っているのであり、その他愛なく純粋な「憧れ」を水源として、そこから生まれてくる他愛なく純粋な「ときめき」や「はにかみ」や「かなしみ」等々の気配のことを「品性」というのではないだろうか。
人間なら誰もが心の中に「憧れ」を持っているが、現代社会はその「憧れ」という裸の心だけでは生きられない。人間関係のさまざまなストレス=緊張がそれを覆い隠してしまう。そうやって誰もが多かれ少なかれ心が歪んでしまっている。
まあそれでも、誰もが無防備な裸の心になるときはあるし、無防備な裸の心を失わない人もいる。人間関係で苦労をすると心が歪むし、その苦労はもう社会的な身分とはあまり関係がない。とにかく生き延びようとして、自分を守ろうとして緊張し、「あるがままの自分」という裸の心を覆い隠してしまう。そうして、「生き延びることができる自分」を「インストール」してゆく。
「品性を持った自分」なんかつくっても、しょせんは「インストールした自分」であって、「あるがままの自分」ではない。まるでコンピューターのソフトウエアをインストールするように、「つくりものの自分」になって生きていたりする。そんなことをしても、その表情や姿に、他愛なく純粋な裸の心としての「ときめき」や「はにかみ」や「かなしみ」はにじみ出てこない。
現代人はもう、裸の心で他者の存在そのものにときめいてゆくことをしないで、他者の人格や姿や身分を値踏みばかりしている。
「正しい人格」とか「美しい人格」とかを見せびらかされても、そんなものはどうでもいい。「あるがままの人格」と「つくりものの人格」があるだけだ。
「あるがままの人格」は、「正しい」とか「美しい」というような顔をしていない。ただもう「他愛なく純粋な憧れ」とともに「他愛なく純粋なときめきやはにかみやかなしみ」などがにじみ出ているだけだ。



自分には品性があるなどと思うな。それは「女神」が持っているものであり、他者の中に見いだされるものだ。そういう「女神」に対する「遠い憧れ」があればそれでいい。品性は憧れるものであって、自分が持つものではない。
品性に対する憧れは誰の中にもある。自分の中にはないから憧れる。
原節子ほど心の中に「他愛なく純粋な憧れ」を持っていた女優もいない。それが、あのまばゆいばかりの笑顔になってあらわれていた。
まあ「品性」は、隠しようもない表情やしぐさになってあらわれる。作為的に「正しく美しい人格」などというものを捏造して「インストール」したってだめなのだ。
「憧れる」とは、「自分=この生」の外の、「非日常」の世界を思うこと。他者の声や表情やしぐさに、ふと遠い世界に対する憧れのような気持ちを抱かせられる。それが「ときめく」ということであり、「品性」とは、その「遠い世界の輝き」のようなものではないだろうか。そういうものに対する「憧れ」とともに人は人にときめいてゆく。
人と人は、「もう死んでもいい」という「非日常」の世界に対する「憧れ」とともにときめき合っている。
人は、「非日常」の世界への「憧れ」とともに生きている。そうやって心が「飛躍」し「超出」してゆくことが、人間的な知性や感性になっているし、日本列島の能という伝統芸能はそういう人の本性・自然にかなっている。
誰の心の中にも「憧れ」という心模様がはたらいている。「秘すれば花なり」ということ、人と人の関係の本質・自然は、なれなれしくじゃれ合っていることでも、その裏返しとして、なれなれしく裁き合ったり憎み合ったりすることでもない。それが「戦争と平和」ということなら、戦争も平和もいらない。
無防備な裸の心……人の心の本質・自然は、ひとりぼっちで途方に暮れてそのよるべなさに震えている。そこに立って人と人は「遠い憧れ」とともにときめき合ってゆく。この社会は、その関係を組織できるか?
生き延びるための「正義」なんかいらない。
「もう死んでもいい」と思えるほの「ときめき」があればそれでいい。その「遠い憧れ」が人を生かし、人間的な知性や感性を育ててゆく。
この社会に「女神」はいるか?
現代社会は、そういう「官能性」を見失っている。
原節子は、もういない。